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2023.09.07

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「“懸賞生活”の十字架を背負って生きてます」電波少年から四半世紀、なすびの現在地


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「セカンドキャリアのリアル」とは……

1990年代後半に一世を風靡したバラエティ番組『電波少年』。真っ裸のまま部屋で独り、ハガキをひたすら書く姿を晒した企画が、なすびさんの「懸賞生活」だ。

「もう25年経つのに『服着てるの初めて見ました』っていまだに言われます。福島関連の講演でも、風評被害ってこういうこと、インパクトの大きいことが起きると5年や10年では払拭し切れないと伝えるんです」。

今ではタレントや俳優業の傍ら、故郷・福島の顔として番組やイベントに出演し、山岳関連の仕事もこなす彼に、これまでのキャリアを振り返ってもらった。
話を聞いたのはこの人!
なすび●タレント、俳優。1975年8月3日生まれ、福島県出身。1998年、日本テレビ系『進ぬ!電波少年』内の企画「懸賞生活」に出演。その後、舞台やドラマをはじめ地元福島の番組にも多数出演。福島環境・未来アンバサダー、あったかふくしま観光交流大使など福島関連のアンバサダーを務める。

なすび●俳優、タレント。1975年8月3日生まれ、福島県出身。1998年、日本テレビ系『進ぬ!電波少年』内の企画「懸賞生活」に出演。その後、舞台やドラマをはじめ地元福島の番組にも多数出演。福島環境・未来アンバサダー、あったかふくしま観光交流大使など福島関連のアンバサダーも務める。

いじめ対策で人を笑わせ、喜劇俳優を志した子供時代


福島県で生まれ育ったなすびさんは、父親は警察官でいわゆる転勤族。すべて県内だが、小学校は3回転校している。

「学校が変わる度にいじめの対象になりました。最大の原因は顔が長いことだったんですが、試しに顔を使ってギャグっぽいことをやったらみんなが笑ってくれて。

それから『男はつらいよ』が好きになって、渥美 清さんのような喜劇俳優に憧れたんです。人を楽しませたり、笑わせることで自分もみんなも幸せになれると思ったのが原点ですね」。

渥美 清さんが駆け出しの頃にストリップ劇場の幕間でお笑いをやっていたことから、お笑いを始めたという。

渥美 清さんが駆け出しの頃にストリップ劇場の幕間でお笑いをやっていたことから、なすびさんもお笑いを始めたという。


なすびさんのキャリアを大まかに分けると、懸賞生活、そして東日本大震災が大きなターニングポイントになっている。
1998年1月(22歳) 日本テレビのバラエティ番組『進ぬ!電波少年』の企画「懸賞生活」に出演。
2002年(26歳) 自身の劇団「なす我儘」を立ち上げる。俳優活動本格化。
2005年4月(30歳) 福島県の旅番組にレギュラー出演し、2010年まで県内すべての市町村を巡る。
2011年夏(36歳) 東日本大震災を経て、復興イベントなどに積極的に参加。その後福島関連の仕事にもつながる。
2013年5月(37歳) 福島・東北の復興を掲げてエベレストに挑戦。頂上まで100mというところで断念。
2014年5月(38歳) エベレスト2度目の挑戦。大規模な雪崩により断念。
2015年5月(39歳) 3度目の挑戦。ネパール大地震に遭遇するも奇跡的に生還。
2016年4月(40歳) 4度目の挑戦で遂にエベレスト登頂。その後山岳関係の仕事も増える。
2023年9月(48歳) 自身のドキュメンタリー映画がトロント国際映画祭で上映。

 「上京後は、大学に通いながら役者を目指していたんですが、上手くいかなくて。コンビを組んでお笑い芸人としてプロダクションに拾ってもらいました」。

コンビもすぐ解散し、今後のキャリアに悩んでいた頃に「電波少年」のオーディションへ。くじ引きで“当たった”なすびさんは、そのまま目隠し姿でアパートの一室に連れて行かれた。

過酷すぎる1年3カ月、みんなはそれを見て笑っていた

親にはお笑いをやることを反対されていた。説得した時に条件として『裸には絶対なるな』と言われていた。

親にはお笑いをやることを反対されていた。説得したときに条件として「裸には絶対なるな」と言われていた。


服をすべて預け、大量のハガキとカンパンを渡されスタートした「懸賞生活」。ルールは、目標金額が100万円に達するまで懸賞に挑み続けるというもの。当初は、テレビで放送されることを知らされていなかったという。

「ボツ企画ですぐ終わると思ってましたが、根が真面目なので一日に100通、200通とハガキを書き続けたんです。スタッフも驚いてましたよ。そこは頑固な東北魂じゃないですけど、ギブアップできなかったですね。

しばらくは気持ちを強く持っていたけど、出口が見えないし、100万円の手応えも全く感じられない。次第に負のスパイラルに陥りました」。

当時は生活が放送されていたことも知らず、とにかく生きるのに必死だったという。

当時は生活が放送されていたことも知らず、とにかく生きるのに必死だったという。


外に出られず誰とも話せない孤独、終わりの見えない日々に自殺を考えたこともあったという。

「日記に焼肉に行きたいと書いていたので、100万円達成した暁に、本場の韓国に連れて行ってもらいました。その後、宿泊施設に連れて行かれたんですけど、また懸賞生活と同じシチュエーションになって……。そのときがいちばん辛かったかもしれないです。こんな生活を続けるなら死んだ方がマシだと思っていましたね」。

韓国での懸賞生活は、帰りの飛行機代分を当てるまで。企画は、1999年の3月に終わった。

拭えないイメージ、懸賞生活という十字架の重み



「どこに行っても『なすびだ!』と言われました。過酷な生活を強いたプロデューサーの土屋さんやスタッフに対する不信感はありましたけど、あの映像を見てみんな笑っていたことが何よりショックでしたね」。

しばらくは対人恐怖症に近い状態だったという。

「仕事でも求めるられるのは懸賞生活のなすび。その十字架の重み、大きさを痛感しました。映像には生き延びるのに必死な姿が滑稽に写っていたわけで」。

その強烈なイメージと経験はその後も彼の人生に大きく影響することになる。



一方、2000年代はドラマや舞台など俳優としてのキャリアを築いていった。さらに地元・福島では冠番組を持つことに。

「旅番組で2005年から5年間、福島県内の市町村すべてを周りました。電波少年のおかげもあるけど、津々浦々どこに行っても良くしてもらって。5年間で、郷土愛がより育まれましたね。いつか恩返しをしなきゃと思ってました」。

そしてその翌年、2011年3月11日に東日本大震災が起きたのである。

物産展など、復興支援のイベントにも積極的に参加するなすびさん。写真提供=なすび

物産展など、復興支援のイベントにも積極的に参加するなすびさん。写真提供=なすび


「最初は何もできない無力感に苛まれました。しばらくして瓦礫の撤去などのボランティアに参加していたのですが、次第に復興支援も風化を感じるようになって。福島は原発事故の影響もあってイメージが良くない。

そんなときに、地元の方から『なすびさんにしかできない応援や復興支援があるのでは』と言われて。そこで僕が命懸けで何かを頑張って、福島や東北支援のきっかけづくりができないかと考えたんです」。

東北の復興を掲げエベレスト登山を決意

2011年の夏に四国の遍路巡りを敢行。その際に自身の“健脚”に気付いたことがきっかけでエベレスト登頂を目指すことになる。

最初は、なぜ復興でなすびがエベレストなのか、と散々叩かれたという。

最初は、「オリンピック出場」や「素潜りの世界記録」など、あらゆるチャレンジを考えていたという。写真提供=なすび


「普通の人が5〜6時間かけて歩く距離を僕は2、3時間で歩けたんです。そうしたら、周りの人に登山の素質があると言われて。登山経験もなかったけど、エベレストなら知名度もあるので、東北の方々を元気づけるきっかけになるのではと。最初は売名行為だ、便乗商売だと散々叩かれましたけどね」。

とはいえ、エベレストは入山だけでも数百万円、全体で1000万円ほど必要になる。2013年は支援も得られず、借金をしてネパールへ。

「懸賞生活の辛さが精神的な力になりましたね。あれに比べればまだまだと。登頂まであと100mというところで酸素が持たなくて引き返すことになりました。苦渋の決断でした」。

エベレスト登頂のトレーニングとして、荷物を背負ってベースキャンプまで歩いていたのだという。

エベレスト登頂のトレーニングとして、空路を使わずにシェルパ達と同様、自分で荷物を背負い、首都カトマンズから麓の村まで自力移動したのだという。


2回目の挑戦をするにしても資金繰りが必要。孤軍奮闘していたときに救いの手を差し伸べてくれたのが、土屋プロデューサーだった。

「クラウドファンディングをやろうと考えていたら、土屋さんから間接的に連絡が入って。懸賞生活を終えてから一切連絡をとっていなかったし、数年後に番組で土屋さんと居合わせたときも、緊張で身体が硬直して倒れそうになっていました。

会うだけ会ってみたら、当時のことを謝罪してくれて。僕の活動を応援したいと言ってくれて、それでクラファンをサポートしてもらうことになりました」。

土屋さんの動画番組で支援を募ったことが功を奏して、クラファンは目標金額を達成。

「でも2回目は大規模な雪崩が発生して断念。三度目の正直を願っていたのですが、今度はネパール大地震で自分も雪崩に巻き込まれてしまって。もう山の神様に来るなと言われたのかと思いましたね。

全長1000km以上に及ぶ「みちのく潮風トレイル」。「元気と勇気を貰ってるから諦めないで」という多くの声援が最後の挑戦に繋がった。

全長1000km以上に及ぶ「みちのく潮風トレイル」。「元気と勇気を貰ってるから諦めないで」という多くの声援が最後の挑戦に繋がった。写真提供=なすび


その年に東北の沿岸部に開通した「みちのく潮風トレイル」を歩きました。全長1000km以上あったのですが、そのときに驚くほど多くの声援を送ってもらいまして。それであと一度だけ頑張ろうと、2016年に4度目の挑戦をして、無事に登頂することができました」。

「奇跡は起こせます!」とエベレスト山頂からメッセージを届けた。

「奇跡は起こせます!」とエベレスト山頂からメッセージを届けた。写真提供=なすび


故郷のため、みんなのためが自分のキャリアに

エベレスト登頂を果たした彼のもとには、山岳関係の仕事が舞い込んでくるようになった。

「山の日アンバサダーに選ばれたり、インストラクターの仕事もらったり。考えてもみなかったですね」。

山だけではない。震災前から福島の番組に出ていたが、復興支援を続けていたことを機に、福島のイベントやトークショー、原発関連のYouTube番組など、福島の顔としての仕事は激増した。

今でもスケジュールが空いていれば災害ボランティアや福島の農家の手伝いに行くこともあるという。

今でもスケジュールが空いていれば災害ボランティアや福島の農家の手伝いに行くこともあるという。


「福島に関しては、仕事とプライベートの線引きは難しいです。最初は手弁当でやっていたけど、『きちんとお願いしたいから』と結果的に仕事になっていることが多いですね。もちろん俳優の仕事も100%でやります。でも、福島も山も“僕だから”呼ばれる仕事はお金にかかわらずやります。

懸賞生活は自分のキャリアの中で忌むべき部分もあるけど、それを黒歴史として封印したら今の自分はない。一つの感情では語れないですね」。

まだセカンドキャリアの手前にいる

「キャリア」の語源はラテン語で馬車の轍、つまり道筋。なすびさんにおいては、人生の道筋=キャリアという方が相応しい。そこに一貫したポリシーがあるのだろうか。

「肩書きにこだわるとか仕事を取捨選択するとかはないし、プライドがないのがプライドかな。それは震災後に厳しい現実を見聞きして、やることを選んでいる場合じゃないなと感じたのはありますね。

エンタメの仕事は震災でもコロナでも何か起きたら完全に止まる。平和があって初めて役に立てる。だからまずは福島・東北のことを最優先にしてやろうと思ってきましたね」。

やると決めたことはやり抜く。その自分との約束がなすびさんのタフさを支えている。

やると決めたことはやり抜く。その自分との約束がなすびさんのタフさを支えている。


セカンドキャリアについてはどう考えているのだろうか。

「あえて言えばセカンドキャリアはこれからなのかな(笑)。懸賞生活をキャリアと言うなら、それ以上のものが出せていない。エベレストは懸賞生活ほどのインパクトはなかったですから。

実は、数年前からイギリスの映画監督が僕のドキュメンタリー映画を制作していまして、9月にトロント国際映画祭で上映されるんです。それがどうなるかはわからないですけど、それも懸賞生活があってのもの。やっぱり十字架が付き纏うんですよね」。

2023年9月7日〜17日に開催されるトロント国際映画祭で映画「The Contestant」は上映される。

2023年9月7日〜17日に開催されるトロント国際映画祭で映画『The Contestant』は上映される。


アカデミー賞の前哨戦と言われるトロント国際映画祭で上映される『The Contestant』。懸賞生活当時の映像や本人、周囲のインタビューも含まれているという。

「懸賞生活はこの数年、リアリティショーの元祖として海外のYouTubeでもプチバズリしてるらしいんです。映画は震災のことも描かれているので、それも世界へ福島の発信につながったらいいなと思ってますけどね」。

苦難の証である十字架。その重みを生かすも殺すも自分次第。なすびさんはそれを誰よりも自覚し、体現し続けているのだろう。

赤澤昂宥=写真 池田裕美=取材・文

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