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2022.12.31

ライフ

「ラクロスを子供たちの夢のひとつにしたい」日本初プロラクロス選手・山田幸代の言葉



当記事は「The Wordway」の提供記事です。元記事はこちら(第1回第2回)。

「昨日の自分を超える」をテーマに各界のトップランナーの言葉を音声とともに届けるメディア『THE WORDWAY』。音声を楽しみたい方はオリジナル版へ。

2022年2月に “昨日の自分を超え続ける大人を増やす”というテーマのもと、「THE WORDWAY」がスタートし、これまでに15人のアチーバーの声を届けてきました。今回は2022年締めくくりの「特別編」として、THE WORDWAYを主宰する山田幸代が登場します。

山田は、ラクロスを始めた京産大在学中に日本代表に選ばれ、卒業後は日本人初のプロ選手として活動。2008年に単身強豪オーストラリアに渡ると、2017年のW杯に同国の代表として出場を果たすなど、日本ラクロス界の「パイオニア」として世界のトップで活躍を続けてきました。

現在は選手としての一線は退き、国内外の様々なチームの強化に携わりながら、世界ラクロス協会の選手会理事、女子ルール委員会のチェアマンなどを歴任。ジュニア育成を中心に、競技普及に携わってきました。

道なき道を切り開いてきた歩みを振り返りつつ、THE WORDWAYを通して伝えたい思いなどをお届けします。

「やり続ければコミュニケーションが増える。コミュニケーションによって言葉、経験、友達が増えていく。それが人としての潤いになる」

Q:今回はアチーバーとしてお願いします。まずは、プレーヤー時代の話を聞かせて頂きたいのですが、ラクロスとはどのようなきっかけで出会ったのですか? 

中、高とバスケットボールを1年の360日ぐらいやっていて、大学に入る時には「もうやらない」と思っていました。全国を目指して全国に出て、目標を達成したことで次の目標が立てられなくなったんです。

その時に新しく出会ったのがラクロスでした。「バスケットやめるぞ!」と言いながら、国体選考に呼ばれていたので、体力づくりのために何かやらないとなと思っている時に、たまたま友達から「ラクロスいいよ」って言われたのが始まりで、ラクロスというスポーツを全く知らなかったので、最初は「何それ」みたいな感じでした。

Q:そこからのめり込んだのは、どこに魅力を感じたのですか?

やり始めたら上手くできなかったんです。ラクロスってスティック1本で全て完結してしまうスポーツで、ボールを取って投げて拾って打つ。それができないことに対してワクワクして、「上手くなりたい、上手くなりたい」みたいな感覚で、どんどんハマっていきましたね。



Q:大学卒業後の05年には大手通信会社に入社し、営業職として社内トップセールスを記録したそうですが、07年にはプロ宣言し、日本人初のプロラクロスプレーヤーになりました。競技と仕事の両立の難しさは感じていたのですか?

元々ラクロスはプロも国内リーグもないので、仕事をしながらラクロスをするっていう二軸でやるのが当たり前だったんですが、私はラクロスを始めた時から、『子供たちの夢の1つに「ラクロス選手になりたい」と思ってもらえるスポーツにしたい』っていう夢を持っていたんです。

それ以前の「保母さんになりたい」という夢と、大好きな子供たちと大好きなラクロスの2つを重ねて、新しい夢を持てたんです。そうしている中で、「プロになるか」と言ってくださった企業さんに出会えてたので、「子供達にも、プロ選手が1人でもいたら夢になるんじゃないか」という思いから、「やります」と言ってプロになりました。

Q:翌年の08年には強豪オーストラリアに渡る決断をされました。迷いはなかったのですか?

私の中で、子どもたちの選択肢を増やすこと、ラクロス選手がその選択肢の1つに入ることというのが、自分の中の夢、一番大きな目標だったので、オーストラリアに行くことも、プロになることも、普及活動も全てその過程でしかなくて。

だからこそ、世界を見て何が日本と違うんだろう、日本がメダルを取るようなチームになったら子供たちに見てもらえるんじゃないかとか、そういった自分の夢を持っていたので、恐怖心も感じなかったですし、「なんとかなるわ」と思ってオーストラリアに行きました。

Q:オーストラリアでの競技生活は14年間も続きました。苦しい時期、壁を乗り越えるのに苦労したこともあったと思うのですが?

1つは語学ですね。初めに行った時はボールももらえなかったし、コミュニケーションも取れなかった。オーストラリアに行くことに怖さはなかったけど、行ってから怖くなりました。やっぱり何も伝わらない、想いが伝わらないっていうのがこれほど怖いことなんだっていうのは感じました。



Q:プレーヤーとして壁を感じたり、それによって自分自身に変化はありましたか?

ボールをもらえない1年ぐらいが過ぎて、だんだんコミュニケーションが取れるようになってくると「頑張ってるね」っていうお客様扱いされるような期間が2年ぐらいありました。でも自分がどんどん認めてもらえ始めてきて、同じぐらいのレベルに到達したと認識されると、次は逆に落とされ始める。

「アジア人に負けるか」「ポジションなんか取らせるか」って目の変わり様だったり、行動だったりに変化をすごく感じました。それが、悔しかったですけど嬉しくもあったんです。それって世界大会でも一緒なんですよね。

彼らが本気の力を出している所に入っていかないと、日本にこのレベルを伝えられないと感じたんです。だから、オーストラリアに「移籍」することを決めたんです。世界のトップ3の本気になった選手たちの中で揉まれることで、日本で伝えられることがある。

ラクロスは人生で1回しか「移籍」ができないので、オーストラリア代表を目指したら、その時点で日本代表には戻れないんですけど、私のゴールはそこじゃなかったのでオーストラリア代表にチャレンジして、「指揮官として日本に帰るぞ」と考えを変えましたね。

Q:オーストラリア代表に挑んだ8年間、高くモチベーションを保つため、どういった工夫をされていたのですか?

日本代表になるまでの過程と、オーストラリアでの過程は全く違って、日本代表は受かるかどうかしか分からないけど、オーストラリア代表は始めに200人ぐらいからトライアウトが始まって、何度もキャンプを重ねて2年かけて18人に絞るんです。

その過程の中でトライアウトの後に必ずフィードバックがあったことが大きかったと思います。だから、自分の位置が常にわかりましたし、必要な部分や足りないところ、自分が人よりも長けてるところがすごく納得しやすかったんですよね。



Q:14年間オーストラリアで戦い続けた中で多くのことを学ばれたと思うのですが、山田さんが特に大切だと感じたことはありますか?

そうですね。やり続けることでコミュニケーションが増えるということだと思いますね。コミュニケーションが増えると、言葉も経験も、友達もファミリーも増えていく。それによって、自分の生活や、人として潤う時間が長くなるじゃないですか。

コミュニケーションを取ることで、人を否定しない事っていうのはオーストラリアでチャレンジしていく中で学んで、自分の答えを出せるところまで来たので、それは一番大きいなと感じています。

Q:THE WORDWAYではアチーバーの方を変えた言葉、大切にしている言葉を聞いています。山田さんにとっての特別な言葉を聞かせてください。

「人生おひとり様1回限り、楽しまなきゃ損でしょう」ですかね(笑)。「SUN」かな。私のバスケットのときのコートネームなんですが、先生から「あなたは太陽のような笑顔を持ってるからSUNよ」ってはじめに言われたんです。

常に光が当たったり、光を当ててあげたり、自分が輝くところに周りが輝いていくっていうのが太陽だと思うので、だからこそ輝けるために常にチャレンジし続けることが、周りを照らすことにもなるのかなと思うので、やっぱり私の大事にしたい言葉はSUNですかね。

Q:山田さんのこれからの目標について聞かせてください。

私の役割は明確になりつつあって、「機会を作る」ってことだと思っています。なので、色んな場面で誰かが輝ける機会を作っていくということに注力していきたいし、それが人を輝かせたり、子供たちが見る未来が輝いたりしていくものになると思うので、いろんなことにチャレンジをしていきたいですね。




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