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2025.10.22

ライフ

「限りなく0円生活で」車も家も“手製の塩”と物々交換。宮崎移住から15年、3児のシングルファザーの軌跡


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仕事、住まい、子供の教育。移住するには考えなければならないことが山積みだ。が、何の準備もせずに千葉県から宮崎県へと移住してしまったのが、塩職人でシングルファーザーのネジさんだ。

車や住まいは、塩との物々交換で手にいれ、移住生活は15年目に突入した。なぜそんな暮らしが可能なのか、この15年を振り返ってもらった。

きっかけは東日本大震災。とにかく西へ車を走らせた

ネジさん

ネジさん●15年前に千葉から宮崎へ移住し、塩づくりを生業に3人の息子さんと暮らす。


移住前、ネジさんは千葉県君津市の築180年の古民家の借家に住んでいた。
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「人生で初めてDIYをして、半年ぐらいかけて理想の家に改装しました」。

ところが住み始めてわずか1カ月後、東日本大震災が発生。福島で原発事故が起きた。

「僕は一時期アクティビストのような活動もしていて、当時は“反原発”みたいな思想を持っていました。全国の原発周辺の放射能数値がわかるサイトがあったので、震災後はずっとそれをウォッチしていたんです。

忘れもしない3月14日の夜中、危険とされる180を大きく超えて、僕の住む地域の数値が急に4000以上に跳ね上がった。当時は1歳の息子と、妊娠中の妻がいたので『ここにいてはいけない』と思い、翌朝、車に積めるだけ荷物を積んで、とにかく西に行こうと車を走らせました。当時は一時避難のつもりで、まさか移住するなんて考えてもいませんでした」。



目指したのは友人の暮らす宮古島だった。

「でも僕、宮古島の場所も、どんな土地かも見たことがなかったんですよ(笑)。奈良まで車を走らせたところで、改めて宮古島について調べたら『めっちゃ遠いし、ここは無理だ…‥』と愕然としました」。

そこで日本全国を自転車で旅していた友人に電話をかけた。

「たまたま彼は宮崎県の串間市にいて、『日本中見てきたけど、ここはトップクラスで豊かなところだよ。人も紹介するから来てみたら?』って勧めてくれたんです。彼が言うなら間違いないと思って、その電話一本で宮崎に向かうことにしました」。

とんとん拍子で移住先が決定するも「正直、どうしよう」



宮崎に到着したその日、紹介されたのがTABI LABO創業者の“びんちゃん”こと久志尚太郎さんだった。

「当時びんちゃんはNPO法人を立ち上げたばかりで、会った瞬間に『一緒に働いてくれない?』って言われて、つい『うん』って言っちゃったんです(笑)」。

当初は一時避難のつもりだったネジさんだが、これで宮崎移住が決定してしまったのだ。

「正直、やべ〜どうしようって思いましたよ。でも始まっちゃったから仕方ないですよね(笑)」。

さらに住まいもその日のうちに決まった。

「びんちゃんが、無農薬のみかん山を持っている吉田さんという仙人みたいなおじいちゃんと一緒に暮らしていて、僕たちもそこで共同生活を送ることになったんです。山の中にある元々は馬小屋だった建物を改装した家みたいなところで(笑)、使っていなかった物置部屋の荷物をどかしたところが僕たちのスペースでした」。



もちろん千葉の自宅はそのまま残していたが、半年後に様子を確認しに戻ると、余震も続いていて、「やっぱり今は帰れないな」と思ったという。

「苦労して作り上げた夢の家だったので、最初のうちは捨てきれなかったんですよ。だから結局、1年間は家賃を払い続けていたんですが、宮崎に腰を落ち着けることに決めました。

NPO法人の契約は1年でしたから、千葉に戻る選択肢もなかったわけではありません。ただ、今は原発は関係なく、宮崎に軸足を置いて、人生を生きていくのが楽しいから、ここに住み続けているんです」。

選んだ仕事は“塩づくり”。「お金はないけど塩はある」


その吉田さんの山で出会ったのが、塩焚きだった。

「吉田さんの山にはサーファーやヒッピー、吉田さん世代のおばあちゃんたちが集まって、夜な夜な火を焚いて、自分たちが食べる塩を作る文化があったんです。

で、僕も一度塩作りを見せてもらって、少し自分で勉強したら、『この工程のこの部分を変えたら、もっといい塩ができるんじゃないか』と思って。試してみたら『これ売れるんじゃない?』っていう塩ができたんです」。



そこからネジさんは塩の販売をスタート。吉田さん宅に滞在したのは3〜4カ月ほどだったが、その後も山に通い続けて塩を作り、数年後に自宅の敷地内に自身の塩焚き窯を構えることができた。

とはいえ、塩である。高級な塩でも1000円程度。作り手はネジさん1人で、量産ができるわけでもない。仕事として成り立つ勝算はあったのか。

「う〜ん、そもそも仕事とか商売っていう感覚が僕にはないんですよ。塩って絶対みんな食べるじゃないですか。だから作って、余った分は人にお裾分けするぐらいの感覚なんです」。

なぜそれで生活が成り立つのか。それは20代のときに立てた人生のテーマがあったからだ。

「『生きるために必要なものは全部自分で作る』というテーマです。米や家もそうだし、仕事も遊びも、政治だって、なんでも自分でやっていく。生業の柱を作るのではなく、自分が作ったものを売ったり、自分ができることでお金をもらう。あと“いくら稼ぐか”じゃなくて、“いくらあれば生きていけるのか”と考えていて。

その金額がゼロに近ければ近いほど生きやすいじゃないですか。だからゼロに近づけていく作業をずっとやっていました。一時期はすごくストイックに暮らしていて、ソーラーパネルを自作して、夏の宮崎県で5人家族で電気代200円という時もあったほどです」。



「本当に情けないけど、僕はずっとお金がない。でも塩があるんです」と楽しそうに話すネジさんにとって、塩は商品であると同時に通貨でもある。

「東京や大阪などに行くときはバックパックいっぱいに塩を詰め込んで、『空になるまで帰れないぞ』と思って出かけます。で、販売するだけじゃなくて、飲食店に入って『すみません! これで何か食わせてください!』と塩を渡すこともあります。意外と大将が面白がってくれて、ご飯を作ってくれるんですよ」。



塩と物々交換をするネジさんのライフスタイルがテレビ番組で紹介されると、塩の売り上げは急増。さらに物々交換の申し出も増えていく。その最たるものが家だ。

「テレビを見ていた大阪の女性がいて、おばあさんが同じ串間市に住んでいたんです。それで帰省のたびに塩を買いに来てくれていたんですけど、あるときおばあさんが施設に入ることになって。空き家になってしまうのでと草刈りの仕事を頼まれたんです」。

ある日のこと、瓦屋根が何枚か飛んでいることに気づいたネジさんは、近くの採石場に行き、瓦礫の中から割れていない瓦を探し出して、「勝手に修理」をしたという。

「そうしたらすごく感謝されたんです。ところが翌年おばあさんが亡くなってしまって。本当に空き家になってしまうというところで『ネジさん、家もらってくれない?』と言われまして。『はい、もらいます』と、塩を1kg渡しました」。

すでに持ち家で暮らしていたため、生活の基盤は変わらなかったが、「生まれて初めて徒歩でコンビニに行ける家」を手に入れ、たまに街中に泊まりにいくという贅沢を楽しんでいる。ほかにもフォルクスワーゲンの車や、PC、モダンレトロな美容室の椅子まで、すべて物々交換で手に入れたものだ。



「お金はない」というものの、自宅を眺めていると、その暮らしぶりは文化的にとても豊かなことが伝わってくる。

「今は塩の収入が年間200万円ぐらいありますし、ありがたいことに児童手当もある。限りなくゼロ円で生きていける状態を作っているので、豊かな暮らしが送れていますね」。


▶︎後編へつづく

林田順子=取材・文

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