連載「The BLUEKEEPERS Project」とは……OCEANS SDGsアドバイザーであり、セイラーズフォーザシー日本支局理事長の井植美奈子さんがシーフードレガシー代表の花岡和佳男さんと対談。
長年、お互いの活動をよく知り、それぞれの立場から共に海洋保全に取り組んできた。大阪・関西万博でともにパビリオンでの発表を目前にする今、より良いサステナブルな水産業の未来について4回にわたって熱く語り合う。
まずは、お互いの出会いと、花岡さんがこの道でキャリアを歩んできたきっかけから振り返っていこう。
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花岡和佳男(はなおか・わかお)⚫︎株式会社シーフードレガシー 代表取締役。フロリダの大学にて海洋環境学及び海洋生物学を専攻。 卒業後、モルディブ及びマレーシアにて海洋環境保全事業に従事。 2007年より国際環境 NGOで海洋生態系担当シニア・キャンペナーとしてジャパン・サステナブル・シーフード・プロジェクトを立ち上げ引率。
花岡和佳男さん(以下、花岡)「初めてお会いしたのはアメリカでしたね。2013年、カリフォルニアのモントレーベイ水族館で開かれた、パッカード財団主催のワークショップでした。日本から海を守る活動をする人たちが招かれ、私も井植さんもそこに参加していた。当時の私は国際環境NGOの日本支部で海洋生態系を担当していました」。
井植美奈子さん(以下、井植)「私はセイラーズフォーザシー日本支局を立ち上げて2年ほどの頃。まだ手探りで、花岡さんのようにすでに国際NGOで活躍している方に会い、『日本にもこんなエキスパートがいるんだ』と驚いたのを覚えています」。
花岡「僕はむしろ尖りすぎていた時期で(笑)。でも、20人ほどが集まった合宿形式のワークショップは本当に意義深かった。今でもよく思い出します」。
井植美奈子(いうえ・みなこ)⚫︎ディビッド・ロックフェラーJr.が米国で設立した海洋環境保護NGO[Sailors for the Sea]のアフィリエイトとして独立した日本法人「一般社団法人セイラーズフォーザシー日本支局」を設立。京都大学博士(地球環境学)・東京大学大気海洋研究所 特任研究員。総合地球環境学研究所 特任准教授。OCEANS SDGsコンテンツアドバイザー。
井植「レクチャーあり、ディスカッションありですごく充実していました。世界の海を守りたいという思いが財団にはありますから、アメリカやヨーロッパである程度活動の目処が見えてきたときに、次はアジアへということで、そのファーストステップとして日本に焦点があたり招かれたんですよね。
フィールドワークで現地のスーパーマーケットに行くと、サステナブルなシーフードに対して貼られている認証シールが付いてない魚介類を探す方が難しかった。その意識にすごく驚きました。そういった現状を知り、政府や企業がなぜ海洋保全に動くのかということを、アメリカのNGOの方々からレクチャーを受けて。
逆に私たち参加者からも、日本が資源管理できていないのは、当時はそもそも法律が違う、意識も違う、しかもスモールプレーヤーの集合体という漁業体制が多いというアメリカとの違いを彼らにも共有していました。相互に情報をシェアして、私も活動の初期にこうしたイベントに参加できたことは、その後とても役立ちました」。
花岡「パッカード財団主催のそのワークショップもそうでしたが、これまで私がアメリカの財団と話をしたさまざまな機会を振り返ると、彼らは戦略作りの段階から、主導権をその国や都市などのローカルに託し、彼らが主体的に構築するよう促していくという特徴があります。
海を守りたいという熱意はとても強力なんですが、自分たちのやり方を押し付けるわけでは決してない。実現のためにどういう道筋で行うかを考えるのはローカルで、その内容に賛同したらサポートする、というスタイルなんです」。
井植「そうですね、短期、中期、長期の戦略設計がすごくしっかりしている印象です。パッカード財団もそのときのワークショップを開いたことで、その後10年にわたる日本フォーカス戦略ができたといいますし、日本からアジア全体に広げて考えたとき、どのような未来、選択が描けるかを、彼ら自身も考えたかったという側面があったと思います」。
花岡「ローカルに任せてもらえることで、僕らも受け身にならず自分ごととして考えられる。地域ごとの強みも生かせるし、パートナーシップも磨かれていきますしね」。
井植「活動は必ずインプット、アウトプット、アウトカムまでをセットにして戦略構築します。だからこそ、こうした場で戦略立案力を鍛えられたのは大きかったです」。
花岡「組織だけでなくリーダーを育てるという哲学も日本とは違うところですね。パッカード財団を通じて、自分や組織をグローバルネットワークにつないでくれるおかげで、日本で行動を起こすときにも世界からの情報やサポートを得やすい。世界規模のネットワークを得られたのは大きな財産です」。
井植「当時すでに花岡さんは国際NGOで活動されていましたが、改めてキャリアの始まりを伺いたいです」。
花岡「幼少期は親の仕事の関係でシンガポールやマレーシアで暮らしていました。東南アジアには綺麗な海がたくさんあるので、シュノーケリングやダイビングの楽しさをそのときに覚えました。ただ、過剰な沿岸開発の影響やサンゴが死んでいってしまうことも目の当たりにしたので、いつしか大好きな海を守っていきたいと考えるようになって。
そして、海洋環境学と海洋生物学をアメリカの大学で学びました。日本の大学には魚を獲ることを学ぶ学校はあっても、海を守ることについて学ぶところは見つけられなかったんです」。
井植「大学卒業後のファーストキャリアはどういった道を歩まれたのでしょうか?」。
花岡「最初はマレーシアでエビの粗放養殖の会社創立に携わりました。周辺の養殖場ではマングローブを大規模に伐採して養殖池をつくるので、スコールのたびに土砂が海へ流れ込み、サンゴが死んでいく。私たちの粗放養殖事業はこの課題へ対する解決策の提示だったのですが、現場で活動して、問題は生産現場ではなく需要にあると痛感しました。
日本は年間を通じて同じサイズのエビを大量に求めるから、自然な環境での養殖が成り立たない。環境破壊の根本原因は“食べる側”にあると確信し、日本に戻る決心をしました。2000年頃のことです」。
井植「その頃はエビに限らず、色々な魚をとり過ぎていましたよね。年々魚介類が減っているという事実さえも、日本政府も認めたがらない時代でした」。
花岡「そうでしたね。帰国してすぐ、これはエビだけの話じゃないと痛感しました。市場の仕組み自体を変えなければいけないと考え、国際NGOに入りました。そこから20年。課題はまだ多いですが、“こんなに社会は変われるんだ”と実感することも増えています。むしろ今は、その変化に立ち会えることへの感動のほうが大きいですね」。
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海を愛し、守りたい。その思いが出会いを生み、行動を育ててきた。10年前に芽生えた対話は、いまサステナブルシーフードの未来を形づくる礎になっている。
▶︎第2回に続く(27日公開)