看板娘という名の愉悦 Vol.8
好きな酒を置いている。食事がことごとく美味しい。雰囲気が良くて落ち着く。「行きつけの飲み屋」を決める理由はさまざま。しかし、なかには店で働く「看板娘」目当てに通い詰めるパターンもある。もともと、当連載は酒を通して人を探求するドキュメンタリー。店主のセンスも色濃く反映される「看板娘」は、探求対象としてピッタリかもしれない。
「新宿ゴールデン街」。言わずと知れた東京、いや日本を代表する飲み屋街で、狭い区画に200軒ほどの小さなバーや居酒屋がひしめく。
1958年の売春防止法施行までは青線地帯だったが、これはまあ半世紀以上も前の昔話だ。
小学校の建物をそのまま利用した吉本興業オフィスから目と鼻の先にあるのが「珍呑」だ。
看板娘のハンナさん(20歳)が元気に出迎えてくれた。
さっそくオススメの1杯を聞くと、「私、ウォッカをリアルゴールドで割ったお酒が大好きなんですよ。でも、ここはエナジー系ドリンクはないからジンジャーエールで割りましょうか」。
ちょっと危険な香りがするが、そもそも酒場とは危険な場所なのだ。
ハンナというのは本名で、彼女はアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた。「お父さんが英会話教室の先生で、お母さんはそこの生徒だったんです」というから運命的な恋愛だったのだろう。
中学まで栃木県在住。その後上京して、現在はモデルとDJの仕事を時々しながら週に3日、この店で働いているそうだ。
「画家のお友達がここで働いているときによく飲みにきていて、あまりにも楽しそうだからマスターのLINEを聞いて『働きたいです!』と送ったんです。そしたら、その日のうちに面接という流れになって」
「今日かよ!」と思ったそうだが、結果的に即採用になった。
1階の「シャドウ」はなんと24時間営業で、こちらも同じマスターが経営する店。ともにクリエイティブ系の、いわゆる“ピリオドの向こうを見届けたい”女性スタッフが多く、そんな刺激を求めてくる常連客も多い。
壁にはスタッフが入れ替わるたびに上から貼られるシフト表。辞めた人の名前札を剥がさないところにマスターの愛を感じる。
トイレには「従業員を独占しない」「スタッフの笑顔を曇らせない」などの珍呑十訓的なものが貼ってある。
ハンナさんは想像以上にすごい人だった。何しろ、Twitterのフォロワーが4万人以上いるのだ。
客の様子を見ていると、どうやら男女を問わずハンナさん目当てで来ているようだ。ハンナさんも全力の笑顔とトークで迎え入れる。
ここで、僕の隣に座っていた紳士が「この焼酎の水割り、ちょっと薄いなあ」とつぶやいた。ハンナさん、すかさず「あっ、ごめんごめん」と景気よく注ぎ足す。
しかし、さすがゴールデン街。客層が濃い。聞こえてくる会話のテーマも「SM嬢が抱えるストレス」から「簿記3級の試験対策」まで非常に幅広い。
ハンナさんも「そうなんですよ。こないだもプロレスの『飛龍革命』の話を2時間熱く語って帰ったお客さんがいましたね。私にはよくわからないけど(笑)。みんなちょっとずつ変で面白い」と笑う。
そのとき、帰ろうとした青年の財布に「大丈夫!」という謎のシールが貼ってあることに気付いた。聞けば「ベルサーチの財布に友達がいたずらで貼ったのをそのまま使ってるんです」とのこと。
しかし、「大丈夫」ではなかった。ハンナさんが「わっ!」と声を上げたのだ。「やばい、肘でガラスを割っちゃった!」。
「もう嫌だ、帰りたい……」と落ち込むハンナさんを客が口々に励ます。「そんなことぐらいでマスターは怒らないよ」「床に飛び散らなかっただけマシ」。僕も応援のつもりで、お任せでお代わりを頼んだ。
ゴールデン街の楽しさを知ってしまったので、もう普通の居酒屋では飲めないというハンナさん。最初は「ハーフのスカした女が入った」と思われるのではないかと心配したそうだが、「みんな、私の本気をちゃんと見てくれてうれしかった」と振り返る。
「あとはハンナを愛してもらってる分、みんなを愛したいなあと思っています」と続けたところで、カウンターのあちこちから「ハンナちゃん、1杯飲みなよ!」の大コール。
文字通りの看板娘だ。よい風景を見させてもらった。さて、僕はお会計をしよう。ハンナさん、読者へのメッセージをお願いします。
【取材協力】 新宿ゴールデン街 シャドウ・珍呑https://twitter.com/mercishadow取材・文=石原たきび