世界的ブランドに押し上げた立役者も日本人だった
アイランドスリッパは日本の草履や雪駄をベースとしている。アメリカではトングタイプのサンダルをフリップフロップと呼んでいたが、ハワイのサンダル屋は軒並み「SLIPPER STORE(スリッパストア)」を名乗った。このことからわかることは、アイランドスリッパがかなり影響力のあるブランドだったということだ。
ビーチサンダルが誕生したのは1952年のことで、アイランドスリッパはそれより早く、非常に近しいアイデアを商品化していることになる。ご存じのとおり、ビーチサンダルも草履からヒントを得たサンダルだ。戦後日本の復興支援のために来日していたアメリカ人工業デザイナーのレイ・パスティンが日本の内外ゴムの協力を得て完成させた。
往年の広告
話を戻せば、アイランドスリッパは本永の息子、エドワード・モトナガの代になるとオアフのパールシティに25000平方メートルの工場を建て、量産態勢を築いた。経営権は1985年にジョン・カーペンターに引き継がれ、現在は息子のマットが指揮をとる。
その価値を見出したのは日本のフットウェア業界を牽引するGMTの代表取締役、横瀬秀明だった。休暇で訪れたハワイでアイランドスリッパに出会い、“MADE ON OAHU”を掲げる気概にアタった横瀬は取引を申し出る。ただし、ひとつ、注文をつけた。
アイランドスリッパはジョンの代になり、一部のコレクションを中国でつくっていた。横瀬はこれをやめるよう訴えたのだ。“MADE ON OAHU”は誇るべきことであり、そしてブランドの世界観を守ろうと思えばどこでつくられているかはとても大切なことなのです、と。
現在はそのすべてがオアフの工場でつくられる。一足一足木型に釣り込み、トングの調子も手作業で整えるプリミティブな現場には誰もが感動するはずだ。30、40年勤める職人も多く、作業現場には家族経営のような空気が漂う。
現在の工場
赤道直下に限られていた取引先は世界に広がり、アレン・エドモンズやJ.クルー、バーニーズ ニューヨークとのコラボレーションでも名をあげた。
そのような態勢づくりに一役買ったのが日本人だったと知れば、本永も草葉の陰で喜んでいるに違いない。
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