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一人でできることなんか何もない 



編集部 そこから今のような仕事をするようになったのは、どんなきっかけがあったのですか?

黒田さん 絵を描くのだけはずっと大好きでしたから、時々ハガキに絵を描いて誰かに送ったりしていたんです。そんな僕を見て、ある親切な人が「お前がやろうとしていることって何なのか分かってるか?」って言うから「いや、分からない」と言うと「図案家だよ」って。

当時はまだ「デザイン」って言葉がなかったですからね。「図案家になるためにはどうしたらいいかわかるか? 有名な図案家の先生のとこに弟子入りするんだ」って教えてもらって、「有名な図案家」を探しまくって、巡り合うというか出てきたのが早川良雄先生でした。それから毎日先生の事務所に通って、最後は丁稚奉公のような形で入れてもらいました。

編集部 早川良雄先生の事務所に飛び込んだことで、黒田さんの人生が大きく動いたわけですね。

黒田さん 僕の相棒だった長友啓典と出会ったのも、早川先生の事務所でした。長友が偉い先生の紹介状を持って夏期実習にやってきたんです。早く来すぎてじっと待ってたから、おせっかいな僕は早川先生はまだ当分来ないことを教えてあげなくちゃと思ったんです。

でも「こんにちは」って声かけるのも変だから「良い靴下履いてるね」って言ったら、長友も「いいでしょう?」って。それが彼との最初の出会いです。それからものすごく仲良くなって、毎晩一緒に飯食って、1969年にデザイン事務所〈K2〉を立ちあげました。長友という相棒がいたから、僕は50年間ずっと絵を描いて食ってこれたんです。一人でできたことなんて、何もないですよ。

編集部 でも色々なエピソードを聞いていると、黒田さんの好奇心というか行動力によって、いつも新しい扉が開いたのだなという気がします。

黒田さん 僕は扉を叩いて開けるタイプではないんですよ。扉が勝手に開いちゃうんです。僕が世間から「イラストレーター」と呼ばれるようになったのも、和田誠さんとの出会いがあったからです。

〈K2〉を立ちあげる前、ニューヨークに行ったんですけど、「俺はこんなことやってる」と誰かに喋りたくなって、ハガキに絵のようなものを書いて、何の期待もなく当時創刊したばかりだった雑誌『話の特集』に送り続けたんです。その雑誌のアートディレクターが和田誠さんで、「黒田は面白い」って気に入ってくれて、雑誌に連載してくれたんです。

編集部 それも決して「運」だけではない気がしますが、黒田さんはそう感じておられるということでしょうか。

黒田さん 人運がいいのかな。気がついたら誰かと何か始まっていて、かたちになってる時もあるし、自然消滅してしまう時もある。計画を立てて「こうやって始めましょう」というのはないんです。ラッキーとアンラッキーとが常に両方あって、うまくいかなくても「まあ、しょうがないなあ」という感じ。それくらいがいいなと思ってます。


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