大内義弘の供養塔「瑠璃光寺五重塔」
国宝の瑠璃光寺五重塔を目指して、初夏にはゲンジボタルが乱舞する一の坂川沿いの路を歩く。川の両岸にソメイヨシノが約200本植えられている。瓦屋根の趣のある家並みが続き、週に1日だけ営業しているという隠れ家のような焼き菓子店もある。のどかで素朴な一帯の光景に目をやると、京都の北白川や大原あたりを歩いているような気がしてくる。そうこうしているうちに瑠璃光寺がある香山公園が見えてきた。
お目当ての瑠璃光寺五重塔は1442年、大内義弘(25代)の供養塔として建立された。現在は「令和の大改修中」で、特別にデザインされたシートで覆われている。実寸大の五重塔が白抜きで描かれている。塔影の池のほとりに続く「思想をめぐる道」には和歌のカーテンゾーンが設置されている。
修復中の瑠璃光寺五重塔(筆者撮影)
池を挟んでカーテンゾーンの反対側には全長27メートルの時代絵巻が展示され、大内家の歴史を学ぶことができるようになっている。日本三名塔(法隆寺、醍醐寺、瑠璃光寺)の一つと言われる五重塔の実物を拝見できないのは残念だが、全面改修に伴うさまざまな仕掛けで大内文化を堪能することができた。瑠璃光寺五重塔は山口市観光のハイライトといっていいスポットだが、京都の有名寺院のような混雑とは無縁で、ゆっくりと自分のペースで鑑賞できる。
次に向かったのは、室町時代に活躍した水墨画の大家で禅僧でもあった雪舟がアトリエとしていたとされる雲谷庵跡。京都の相国寺で僧になり、絵を学んだ雪舟は37歳のころ山口に来て、大内氏の後援を受け、雲谷庵に住み始めた。1467年、48歳の時に遣明船で明に渡ったが、1469年に帰国し、再び雲谷庵に居住して多くの弟子を指導。そして1486年、67歳の時に国宝「四季山水図」をここ雲谷庵で描いたのである。
1506年に87歳で生涯を閉じた後、大内氏の後を継いだ毛利氏が、雪舟の画脈が途絶えることを惜しみ、雲谷宗家にこの地を与えたが、明治期の廃藩後に雲谷庵はなくなってしまった。明治17年に有志が古い社寺の古材で庵を復元し、現在に至っている。
3/4