編集部:それまでは名前も出していないアノニマスな焼き物だったんですね。
馬場さん:いえ、それまで波佐見の焼き物は、「有田焼」という名前で出していました。というのも、明治になって鉄道が走り始め、焼き物の運搬にも鉄道が利用されるようになりました。波佐見には電車が通っておらず、隣町の有田駅から全国に出荷されていたから、まとめて有田焼という一つの名前になったとも言われています。デパートの食器売り場にある日常のごはん茶碗や湯のみなどは、実際には波佐見焼の方が多かったと思いますが、名前は有田焼として売られていたんです。
波佐見町としても「有田焼」と謳った方が売れると思っていましたし。しかし2000年代初頭、様々なところで、産地偽装が問題となりましたよね。そこを契機に、波佐見焼きという名前を出して売り出していくようになりました。そこから売り上げが激減し、産業全体としては厳しい状況となりました。
編集部:波佐見焼としての歴史は、まだ歩み始めたばかりとも言えるんですね。馬場さんご自身は家業の窯業に携わられるようになるまで、焼き物に対してどのような印象を持たれていましたか?
馬場さん:「家の裏から取ってくるもの」でしょうか(笑)。買うものではなかったですし、特に興味を持ったこともありませんでした。
編集部:そうなんですね。ではマルヒロに関わられることになったのはどんなきっかけがあったんですか?
馬場さん:父に帰ってこいと言われたからです。将来のことを考えていたわけでもなく、他にやることもなかったので、迷いもなく帰ってきました(笑)。当時22歳でしたね。
編集部:最初に戻ってこられて、どんなお仕事から始められたんですか?
馬場さん:まずは、スーツケースの中に焼き物をたくさん詰め、当初から付き合いのあったお客さんに営業に回りました。マルヒロで働く以前に携わっていたアパレルの仕事では、6掛けや7掛けで値段をつけるのが当たり前。でもここでは、4掛け程度が当たり前だったんですよ。うちから卸問屋さんに卸し、またそこからさらに卸すという仕組みなのでそのような設定になっているのですが、このままではどうやっても儲からないなと実感しました。
また、商品開発についても、当然お客さんが求める企画を実現しなければならない。正月だから紅白の2色でとか、2月だから梅の柄でとか。あまりそういうのはやりたくないなと思いつつも、どうしたら良いのかわからない。考えあぐねていた時に、中川政七商店の中川さんの本を読んで非常に感銘を受けました。コンサルティング業も引き受けるという言及があったので、すぐに電話をしてお願いすることになりました。
マルヒロのお店の床には、無数の焼き物がびっしり敷き詰められている。※旧店舗の画像
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