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「エア マックス 95」が売れた理由

ところで、なぜ「エア マックス 95」は売れたのか。少し歴史をさかのぼって、1989年の「ベルリンの壁の崩壊」がひとつのきっかけだったと僕は考えている。

それまでは、スニーカーといえば、アディダスやプーマを筆頭とするヨーロッパのスニーカーのことを指していた。それがベルリンの壁の崩壊を機に、自由主義の波が押し寄せた。

90年代に入り、その波は徐々に大きくなる。ソ連が崩壊し、アメリカの一強が鮮明となった。95年に発売された「マイクロソフト ウィンドウズ95」がそれを決定的にした。

この年、「アメリカ製こそ最先端でいいものだ」という認識が確実なものになった。そのタイミングで売れ始めたのが「エア マックス 95」だ。「スニーカーは自由の象徴だ」と言わんばかりに、ナイキが頭角を現し始めた。

「エア マックス 95」の登場は、アパレル全体のマーケットそのものを変えてしまった。その結果、それまで、古着やヴィンテージばかり取り上げていたファッション誌の多くが、新作(新製品)を取り上げるスタイルに変化していったのだ。

その影響で、売れ線だったオリジナルの1985年製「エア ジョーダン 1」や「ターミネーター」「ダンク」、メイドインフランスのアディダスなどの古いスニーカーに代わって、新作スニーカーが注目を浴びていった。

このころを境にチャプターは、いわゆる「古着とヴィンテージスニーカーの販売」から「スニーカーの並行輸入」へと軸足を移していく。

武器になった商社時代の貿易スキル

「王道のものばかりじゃ売れない。効率ばかり優先すると『遊び』がなくなって売れない」ということは、フリーマーケットで3カ月くらいして覚えた。

古着を扱っていた当時、アメリカで65~95セントで買い付けたTシャツが、日本では2980円で売れた。だけど、売れて在庫が少なくなり、カラーバリエーションが欠けると、2980円では売れず、1980円に値下げしなければならなかった。ところが、買い足してまたカラーバリエーションが増えると、面白いことに、一度値下げしたはずの商品が2980円でもまた売れる。

本来は売れるものであっても、「売れ残り」に見えた途端に価値がなくなるのだ。だから、そうならないように、また買い付けを繰り返す。基本的には白や黒が売れやすいけど、売り場にも「差し色」がないといけない。古着のTシャツも白、黒、赤、青、黄などをセットで買い付けるようにしていた。

スニーカーもこれと同じだ。仕入れのときに横に並べてバランスを見て、色が欠けないように買い付けていた。「やればやるだけ発見がある」、そうやって商売にどっぷり浸っていった。

買い付けで最も重要なのが、いかに買い付け資金を用意するかだ。それには、カキウチ時代の知識がすごく役に立った。当時は、海外の銀行でパスポートを見せると、その銀行の口座や通帳がなくても、日本の銀行からお金をおろすことができたし、L/Cオープン(信用状取引)と組み合わせて、パスポートを見せることで代金の後払いをすることができた。

ほとんどのバイヤーがそんなことは知らず、トラベラーズチェックや現金を持参するのが一般的だった中で、僕はそういった〝合わせ技〟を駆使して、買い付け資金を用意し、いいものを見つけたら必ず手に入れていた。

関税に関しても、かなり抑えられていた。例えば、新品のスニーカーは、27%の関税が取られる。だけど、箱がなければ中古品として扱われ、7%で済む。それに、アメリカでは州によって州税も異なる。スニーカーや服をニューヨークから送ると8.75%の関税がかかるけど、ニュージャージー州やペンシルベニア州からであれば、関税はかからない。

それに、大都市のニューヨークにはコンペティター(競争相手)となる日本人バイヤーがたくさんいたから、僕はそれを避けて、土地勘のあるフィラデルフィアを拠点にしていた。年間8~10回買い付けに行く中で、いつも決まってルート95(最南のフロリダ州から最北のメイン州を南北に結ぶ東海岸のハイウェイ)を南下したり北上したりしていたのは、実は州税を調べて、そこから導き出したコースでもあった。


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