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「負けないコスト体質」を確立

100ドルで買い付けても、10%の税金がかかると110ドル。ただし税金がかからなければ、それだけで10ドルも利益が出る。

そういった知識を活かして、「負けないコスト体質」を早くに確立したのも、並行輸入店が建ち並ぶ原宿で、チャプターが最後まで生き残った理由の一つだと思う。「たとえ他店と同じ価格で値付けしても、異常に利益率が高いのだから絶対に負けない」と、僕は自負していた。

ちなみに、ニューヨークでも当時のハーレムでは、税金を払う習慣がなかった。店はキャッシュが欲しいからまとめ買いの交渉に応じてくれやすい。

スパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』には、そんなニューヨークの一角で韓国人が経営するスニーカーショップが出てくる。黒人が店主に「まけろよ」と言うシーンがあり、僕もそれを真似して強気に値段交渉していた。

基本的にブラックカルチャーと結び付きが強いスニーカーは、治安の悪いエリアほど、価格も安く珍しいものが残っている。だけど、車の窓ガラスを割られて、荷物を全部盗られるなんてこともあり得るし、最悪、命の危険だって伴う。

アメリカでレンタカーを借りたら、車内が見えないように、まず窓ガラスを黒いビニールで覆うのは鉄則だった。バイヤーだとわかると買い付けのための大金を持っていると勘付かれるから、服装も至極シンプル。チャンピオンのスウェットかTシャツにリーバイスの「501」、そして「エア フォース 1」を履くだけ。他の日本人バイヤーとは違い、オシャレとは程遠い格好だった。

電話帳と睨めっこしながら、そこに書いてあるスニーカーショップをしらみつぶしに回った。電話してもまず、僕たちが「〝古いスニーカー〟に興味がある」なんて理解してくれない。店の人にとっては価値のないものだし、そもそもスニーカーの在庫があるなんて恥ずかしくて言いたくないから、「Whatʼs!?」と気分を害されて、電話を切られるのがオチだ。だから一軒一軒回って、「地下の倉庫を見せてくれ」と交渉するしかない。

そして歴史を知らなければ、バイヤーは務まらない。例えば、ペンシルベニア州のピッツバーグは鉄鋼の街として栄えたけど、1970年になると鉄鋼業が衰退に転じ、工場が相次いで閉鎖された。そういった栄枯盛衰を経た街には、古い店が多く、掘り出し物が必ずと言っていいほど見つかった。

「幻のサンプル」を手に入れるまで

何軒もスニーカーショップを回っていると、セールスレップ(営業代理人)と出会う機会も多かった。

アメリカは広すぎて、メーカーの営業マンだけだとカバーしきれない。だから当時は、各地の個人事業主のセールスマンがメーカーと契約し、卸先に対して営業や販売を行っていたのだ。

わざわざ卸先用のカタログを用意しているところも少なく、彼らは1セットずつ現物のサンプルを持って営業している。

サンプルは自腹でメーカーから買っていて、そのシーズンの営業が終わったら役目を終える。だから、メーカーは禁じているけど、隠れて売りに出すやつが多かった。それを手に入れるためには、彼らにまず、信用されることが大切だ。

『SHOE LIFE(シューライフ) 「400億円」のスニーカーショップを作った男』(光文社)。

『SHOE LIFE(シューライフ) 「400億円」のスニーカーショップを作った男』(光文社)。


こちらから話しかける場合もあれば、日本人の並行輸入業者だとわかると「サンプルを持っているんだけど、買ってくれないか?」と、あちらから交渉してくる場合もあった。最初はしばらく、お互いに身構えて様子をうかがっているけど、「コーヒーでも飲もう」とダンキンドーナツへ行き、だんだん打ち解けてくると本音での会話が始まるのだ。

「このモデルが欲しいんだけど、持っている?」
「売ってやってもいいけど、代わりにこっちのモデルのサンプルも買ってくれ」

そんな塩梅で、人脈を作っては、どこにもないスニーカーを手に入れていた。サンプルのサイズは27センチしかなく、数も限られているけど、ドロップする(製品化に至らない)こともあるので、そういったモデルが市場に流れると、〝幻のサンプル〟として値段も高くなっていった。

しかも、世の中にないものはいくら高くてもすぐに売れてしまう。だから本当に希少なスニーカーは、自分用に売らずにとっておくこともあった。特にナイキの「バンダルシュプリーム」と「ブレーザー」が、僕のお気に入りだった。




本明 秀文=文
東洋経済オンライン=記事提供

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