あまりの人気で「エア マックス狩り」が起こった(写真:時事)
当記事は「東洋経済ONLINE」の提供記事です。元記事はこちら。 ▶︎すべての画像を見る 90年代に起きたスニーカーブーム。人気のスニーカーを履いた人を狙った襲撃事件が起こったことから「エア マックス狩り」という言葉が生まれるほど社会問題になった。そんなスニーカーブームの黎明期に脱サラして、並行輸入品を扱う「チャプター(CHAPTER)」を東京・原宿にオープンしたのが本明秀文氏だ。
家族から集めた300万円を元手に2.7坪のショップからスタートし、スニーカーショップ「atmos(アトモス)」を400億円企業に育て上げた本明氏の著書『
SHOE LIFE「400億円」のスニーカーショップを作った男』から一部抜粋、90年代のスニーカーブームを振り返る。
マーケットを変えた「エア マックス 95」
チャプターをオープンしてから間もなく、転機はすぐに訪れた。その前年に発売されたナイキの「エア マックス 95」がじわじわと売れてきたのだ。
「エア マックス 95」は名前のとおり、ナイキが1995年に発売したモデルで、「イエローグラデ」と呼ばれるカラーリングを中心に、大ブームを巻き起こした。
実際に二次市場で価格が高騰し始めたのは、僕が会社を辞めて、少し経ったころの1996年からだった。当時、若者から圧倒的な支持を得ていたキムタクことSMAPの木村拓哉がCDジャケットで履いたり、広末涼子がポケベルのCMで履いたりと、1997年にその人気はピークに達しようとしていた。
一方アメリカでは、日本のように盛り上がっていたわけではない。野暮ったいフォルムから「イエローワーム(黄色い虫の意)」と揶揄され、売れないからとセール品として定価以下でも手に入った。ただ、1ドル以下で買えた古着と違って、140ドルもするスニーカーを買うには、多額の資金が必要だ。
それに古着よりもかさばるから、でっかいカートンもすぐにいっぱいになる。荷物は空輸すると、重さか容積かのどちらかで計算され、高いほうの運賃を支払わなければならない。
古着なら一人では持てないほどの重さまでギュウギュウに詰めれば何百着か入れられるけど、スニーカーは箱入りだとせいぜい20足が限度。容積を取るから、1足当たりの輸送コストが高くついたのだ。
古着よりも利益が出せるのか不安で、最初に買い付けた「イエローグラデ」はたった4足。だけど、それが日本では3万円ですぐに売れた。これは当時の為替レートで、1万5000~1万7000円で買い付け、輸送費などのコストを差し引いても1万円以上の利益が出たことになる。
まとまった数量さえ仕入れられれば、数千円の利益が出る古着よりも、はるかに効率が良かった。僕は次の買い付けで、思い切って50足を買って帰った。
スニーカーのことは、すべて嫁さんに教えてもらった。嫁さんは今でも「究極のスニーカー好き」だと思う。中でも「エア マックス 1」のコレクションは学生時代から目を見張るものがあった。留学中にたまに2人で出かけたデートは、いつもスニーカーショップだった。
貧乏学生だった僕は「エア フォース 1」を3年間で3足買うのが精一杯だったけど、裕福だった嫁さんは、当時から同じモデルを必ず2足以上買い、1足をコレクション用にとっておくほどだった。僕になかった才能が、商売のヒントをくれた。
独立当初は、買い付けにも同行してくれていて、女性向けスニーカー専門店のレディフットロッカーで、「これは日本未発売のモデルだから大きいサイズを買って帰ろうよ」などと、僕にアドバイスしてくれていた。僕はスニーカー屋だけど、決してコレクターではなく、むしろ教えてもらった側。「スニーカーはあくまでも商材の一つでしかない」と思うし、今でもなるべくお客さんの目線でマーケットを見ている。
例えば、「エア マックス 95」のブームを引きずり、後継モデルの「エア マックス 96」や「エア マックス 97」を仕入れすぎて在庫があふれた店も多かったと聞くけど、僕は、お客さんが今欲しいものだけを集めていたから、反動で在庫過多になることもなかった。
商売がうまくいった秘訣は、スニーカーを「好き」ではなく「売れる」という目線で見る冷静さがあったからかもしれない。
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