「業界のパタゴニアン・パパラッチ」とは…… ▶︎すべての画像を見る 多くの大人たちにとって欠かせないブランド「パタゴニア」。とはいえ中には、周囲との差別化を目論み、あえて距離をとってきた人もいる。笠原徹也さんもそのひとりだ。
“アラサー”になるまで見向きもしなかった男を心変わりさせた要因とは一体……。
笠原徹也●ランバン コレクションやダファーオブセントジョージなどのプロモーションや企画商品を展開するジョイックスコーポレーションに在籍しておおよそ20年。
天邪鬼がゆえに距離を取っていたパタゴニア
笠原さんの若かりし頃、ポール・スミスやアニエスベーといったブランドが席巻し、街はショッパーをバッグ代わりにする若者たちが多く歩いていた。
ただ“天邪鬼”を自称する笠原さんは、そんな世間の潮流を横目に、古着にご執心だったようで。
「古着は、年代や国などを掘れば掘るほど面白い。オンリーワンの強みもありますし。地元の高校を卒業し、東京の専門学校へ通うようになってからさらに拍車がかかりました。当時、地元にはいい古着店がほとんどなかったですからね。東京にはいろんな古着店があったので随分と見て回りましたよ」。
アメリカ古着がファッションの原体験と語る笠原さん。パタゴニアも早くから袖を通した馴染み深いブランドだったかというと、実はそうではない。むしろ、どちらかというと敬遠していたという。
「服飾の専門学校へ行くと、周りは尖った子ばかり。僕も御多分に洩れずで、誰もが調子にノリたくなるんですよ。人と同じものを着るのは嫌だ、とか(笑)。
当然、そのときからパタゴニアも着ている人は結構いましたし、ファッション誌の誌面も随分と賑わせていました。それもあって、どこか距離を置いていた部分はありましたね」。
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