「弊社の看板娘」とは…… クリエイティブワークで活躍している人も、意外な職歴を持っていることがある。
今回訪れたのは、100%天然由来のライフケアブランド「haru」を運営するnijito。
▶︎この記事の画像ギャラリーを見る 港区・大門駅からほど近いビルの4階。
オフィスを覗くとーー。
看板娘、発見。
さっそく、ご登場いただきますよ。
「よろしくお願いします」。
こちらはマーケティング統括本部で働く仲子千帆さん。横浜で生まれ育った。
「外で遊ぶのが好きな子供でした。公園でアスレチックで遊んだり、キックボードで走ったり。2歳下の弟とはずっと仲がよくて、社会人になってからも弟の友達に混ざって一緒にドライブに行っています」。
家族4人でサイパン旅行に行ったときの2ショット。
弟には面白いエピソードがある。年が近かったせいか「お姉ちゃん」と呼ばれたことが1度もなかったというのだ。
「私は『お姉ちゃん』と呼んでほしかったので、上の写真の歳ぐらいのとき、真剣に母に相談したんです。すると、母は私に『うちはアメリカ方式だからファーストネームで呼び合おう』と言って、なんとなく諦めたというか、納得したというか」。
そんな千帆さんはお父さんっ子だった。
小学生のとき、お父さんが1週間程度の海外出張に行くことになる。子供ながらに長い間会えないと思い込み、手紙を書いた。
出発の日の前に渡した手紙が泣ける。
幼少期から絵を描くのが好きだったため、将来の夢は漫画家。
『りぼん』で連載していた高村有菜の『満月(フルムーン)を探して』などを愛読していた。中学では漫画研究部に入り、中学3年からは美大受験のための予備校に通う。
予備校の課題で描いた静物デッサン。
「素材の違うものを組み合わせて、描き分けができるように練習します。このデッサンは、ガラス、発泡スチロール、針金、ゴムボール、土台の白い紙を描いたものです。
美大受験前の夏のコンテストに提出して、受験生の中で1位の評価をいただきました」。
努力の結果、多摩美術大学に現役合格。そこで生涯の恩師に出会う。
「グラフィックデザイン学科に入ったんですが、最終的には写真コースを専攻して卒業しました。そこには、十文字美信さんという大物の写真家であり、CMクリエイターの先生がいらっしゃって。
とっても暖かくて優しくて、いろんな現場にも連れて行ってくださいました。あまりにも好きだったので、卒業後も交流を続けて、3年前には極寒のパリで開催された写真展に母と駆けつけました」。
十文字先生、ダンディーすぎるやろ。
3年生の終わりぐらいになって就活がちらつき出すと、千帆さんは焦ってアメリカのカリフォルニアにホームステイをするという道を選ぶ。
「ホームステイとはいえ、アトリエに通ってひたすら絵を描く日々です。写真や絵を見て模写をするという練習をしていました。『こんな技法もあるんだ!』という発見がたくさんありましたね」。
現地のアトリエで描いた油絵。
就活では広告代理店を受験するも、ことごとく不採用。新卒で入社したのは茨城県で薪ストーブの販売と施工をする会社だった。
最初はクリエイティブ系の仕事をしていたが、上司から「あなた、喋りがイケるから営業をやりなさい」と言われる。
薪ストーブの前に敷く絨毯を2tトラックに詰め込んで全国26店舗を回る日々が始まった。
トラックで全国を駆け回っている時代の千帆さん。
薪ストーブの話を両親にしたところ、「うちにもほしい」となり、自社で手配して施工してもらった。
猫もくつろぐ快適空間が完成。
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