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2022.07.30

ライフ

プロレスラー・永田裕志、54歳。「ここで辞めたら負けになる」と歩んだ格闘人生

永田裕志

永田裕志


当記事は「The Wordway」の提供記事です。元記事はこちら(第1回第2回第3回)。

「昨日の自分を超える」をテーマに各界のトップランナーの言葉を音声とともに届けるメディア『THE WORDWAY』。音声を楽しみたい方はオリジナル版へ。

今回のアチーバーは、今年デビュー30周年を迎え、今も現役を走り続ける新日本プロレスの永田裕志さん。

永田さんは、レスリングのアマチュア選手として活躍し、24歳でプロレスの世界に飛び込みました。デビュー9年目の33歳の時に団体最高峰のベルトIWGPヘビー級王座を獲得し、それまでの最多防衛記録を更新する10度の防衛に成功。

その後も、総合格闘技人気に押された時代の中心選手として業界を支え、54歳の現在も闘志むき出しのファイトでファンの支持を得ています。

浮き沈みのキャリアで培った「成功」を引き寄せる自己プロデュース力、逆境に立ち向かう時に必要な思考とは―。

永田さんの「WORD」から、次のアクションを起こすヒントを見つけてください。

言葉①「実力不足だと分かっていても、自分からは絶対に言わない」

Q:デビュー30周年、おめでとうございます。新日本プロレス最年長の54歳とは思えない肉体を維持し、今も若い選手と真っ向勝負を繰り広げていますが、年齢との闘いという部分で特に意識していることはありますか?

ここ数年ずっとそうですけど、やはり、いかに1つ1つの試合を、常に100%に近い状態で臨めるかということですね。毎日積み重ねてきたことの結果なので。

トレーニング方法も、ある時を境に変わってきたり、いろいろありました。若い時は練習をガンガンやって、とことん鍛え上げるという形でしたが、年齢が上がっていくことで練習内容というか、技術的なことだったりウエイトトレーニングでも違ったやり方をやるとかね。



昔、先輩に「40になったらガクッと疲れが出るから、注意しなよ」ってアドバイスを受けたことがあったんですけど、それを感じないまま50代になった。ただ、50代に突入したらガクッと来たんです。

10年遅かったなと思ったんですけど、そこからは、身体を鍛えるだけじゃなく、メンテナンスもきっちりとやるようになりましたね。

Q:現在は後進を指導したりヒントを与えたりする立場でもあると思うのですが、目に見える「成果」が欲しい若い世代に対して、下積み時代の経験からアドバイスはありますか?

実力がないものを強引に引きずり起して相手にぶつけることも大事なことなんですけど、僕の場合、いろんな足りないものをつけてきたことは、後々良かったと思いましたね。

大切なのは、自分のできることを1つ1つ見つけて、そこで力を付けること。いろんな競争仲間が周りにいる中で、「この人はこういうところが優れている」って見えると思うんですが、その時に自分のできることをより伸ばすことも大事なんですよ。個性がありますからね。



Q:33歳で団体のトップに立ったわけですが、当時は主力選手の大量離脱があったりキックボクシングや総合格闘技の勢いにプロレスが押され始めた時期だったと聞きました。エースとして特に意識したことはありますか?

そういうタイミングでベルトを獲ったからには、新日本プロレスという大きな看板の屋台骨にならなきゃいけないなと。そこで初めて、それまで10年間は自分のためだけにやってきたことが、自分だけではなく他の選手のため、会社のためと考えるようになりましたね。

当時は、新日本プロレスの30周年という追い風もありましたが、そういうものをぶち壊そうとする向かい風もたくさん来てた時代でしたね。それを矢面に立って、ずっと戦ってきたという自負はありますね。



Q:待ち望んだチャンピオンになったタイミングでの向かい風です。ネガティブな思考が生まれたりはしかなかったのですか?

あの時は、やってやろうというエネルギーしかなかったです。

看板を背負う人間というのは、世間に注目させるような言動をどんどん発信していかなきゃいけないし、ベルト持つ屋台骨の人間でお客が入るとか入らないが決まってくるから。

自分の力が諸先輩に比べて、実力がないのはわかっていたんですよ。でもそれは自分から絶対に言えなかったし、背伸びして、でかいことを言って、とにかく自分の発言によって新日本プロレスに世の注目を向けさせることにエネルギーを使いましたね。

僕がチャンピオンでお客が入らないって言われるのが嫌だったので、大きい会場の時は、営業もしましたよ。チケットを売るためにいろいろ夜動いたりもしましたね。


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