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2022.05.15

ライフ

五十嵐カノアの父・勉さんに聞く子育て論。「究極の環境を求めて」



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サーファーやスケートボーダーでカリフォルニアに思いを寄せる人は多い。

移住の壁は高く大きいが、それでも昨夏の東京2020オリンピック競技大会で銀メダルを獲得したプロサーファー、五十嵐カノア選手の父・勉さんは夢で終わらせなかった。

行けばどうにかなると、30歳でカリフォルニアへ

長い歴史を持つその筋の“大国”であることから、カリフォルニアではアイコニックなヒーローや、ブランド、トレンドが次々に生まれ、それらは国境を超えて伝播していく。

いつの時代も新たなムーブメントの発信源であるその存在は“世界の中心”と表現でき、かの地から発信される動向に触れていると「いつか行ってみたい」という衝動が自然と育まれていく。

「行きたい」が「住みたい」となる可能性も高い。

「行こう。行けばどうにかなる」と言う妻・美佐子さんの言葉も強く背中を押し、五十嵐 勉さんは1995年、30歳で移住を実現。以来30年近くにわたり現地で暮らしている。

移住を思い立った根幹には西海岸カルチャーに洗礼を受けた自身のルーツがある。

小学6年生で始めたスケートボードでは東京・原宿のショップ「ストーミー」のライダーとして活躍し、13歳で全日本選手権フリースタイル部門のチャンピオンに。

当時のヒーローは西海岸カルチャーの象徴「ドッグタウン」の中心人物、トニー・アルバやジェイ・アダムスだった。

またサーフィンは中学2年生で始め、やがて千葉に拠点を構える「シークエンスサーフボード」と契約。時代はサンタバーバラが生んだ稀代のカリスマ、トム・カレン全盛と、常日頃からカリフォルニアを身近に感じていたのである。

東京で生まれ育った感性もカリフォルニアとの縁を生み出した。

自身を「サーフィンが終われば青山辺りで過ごしていないとダメというタイプ」だったと笑うが、そのため東京にいながらサーフィン上達の方法を探るようになる。足を踏み入れたのがフィットネスの世界だ。

都内に会員制ジムが多く展開されだした当時、インストラクターの資格を取得してジムに勤め、サーファー向けのプログラムなども作成していった。

そして肝心なのはハリウッドが本場であること。現地での生活基盤をフィットネスの仕事で築けるのではないかと考えたのである。

「ハリウッドにはムービースターを目指す俳優が集い、オーディションに備えて身体を鍛える風土があります。新しいメソッドも生まれやすく、私自身もインストラクター時代にはよく学びに訪れました。

そのとき“これはビジネスになるかも”と思ったのがインストラクターの宿泊施設だったんです」。

美佐子さんと海を渡ったあと、ハリウッドに拠点を設けていざ稼働させると、予想以上に多くのゲストが利用してくれたという。

その一方で、フィットネスウェアを企画・製作し、日本へ送る仕事にも着手。アメカジブームが起きたときには、デニムやスニーカーも買い付けて送っていた。そうして2年ほど経ったときに、長男カノアが生まれる。

「その頃は住まいもハリウッド。近所に幼稚園がひとつしかなく、私立で費用がかさむけれど選択がないため入園すると、世界に誇るエンタテインメント業界の真ん中にいることを痛感しました。

マドンナの娘さんが通っていて、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのドラマー、チャド・スミスの息子さんが同級生だったんです。

“これぞハリウッド!”という感慨に浸りもしましたが、ただ海までは遠く、よく行っていたマリブまではドライブで片道1時間ほど。真剣にサーフィンと向き合う環境としてはベストではありませんでした」。

移住を実現した夫婦のもうひとつの夢が「子供ができたらワールドクラスのサーファーに」というもの。

そこで選んだ次の拠点がサーフィンの聖地、ハンティントンビーチ。ロサンゼルス中心部から100kmほど南に位置するため新たな仕事を見つける必要があったが、「行けばどうにかなる」という美佐子さんの言葉が再び決め手に。

次男が生まれ、3歳でサーフィンを始めたカノア選手が5歳になる2002年の初夏に一家は南下していった。


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