種子島は時代を切り拓く起点になる島
日本のロケット発射場がなぜこの種子島だったのか。H-IIBロケット8号機打上げに成功してから数週間後、福添氏にあらためて話を聞いた。
「赤道上を周回する静止軌道への打上げには、赤道に近く、また、地球の自転速度を利用できる東向きに発射するのが良いのです。ロケットが発生するエネルギーをより少なくでき、効率的なためです。
地球は西から東の方向へと自転していて、その回るスピードは赤道に近いほど速い。つまりその自転速度も利用しているのです。こういった背景もあって日本の中で赤道により近く、東側に開けた海を持つ種子島は、ロケットの打上げに適している場所のひとつでした。
と同時にこれは私の個人的な見解ですが、種子島は戦国時代、ポルトガル人が日本にはじめて鉄砲を伝えた島です。さらに遡っていくと、日本の稲作のゆかりとして、島の北には白米の発祥の地と伝えられる浦田神社や島の南には原始米と考えられている赤米の栽培を伝承している宝満神社があります。
このように過去の歴史を眺めていると、種子島は新しい時代が切り拓かれる起点となっている。実際、自分も住んでいて感じるのですが、地元の方々の新しい人やものを歓待する文化や風土など、この島にはそういう力があるように感じています」。
土地の力。種子島に訪れるまで、私はこの島のなかでロケットはどこか異彩を放っていると思っていた。むしろ原始の自然とロケットという人工物のコントラストこそが魅力ではないか、とさえ想像していた。ところが現実は違った。
宇宙センターの敷地内と島内の景色はなだらかに地続きで、敷地のほんのすぐそばで波乗りしたばかりの女性が、水で身体を洗っている。小さな子どもを連れた家族が寛いでいる。そんな光景を目にするうちに、海を眺めるときも、朝焼けとともに浮かび上がるロケットを見つめるときも、いつしか同じ気持ちで眺めていた。それは福添氏の言葉を借りると、“ロケットと種子島の自然が違和感なく共存”していた。
「この景色を育めたのは、何より地元の人たちの協力と支えがあったからです。そんな種子島宇宙センターは昨年、50周年を迎えました。50年前に打ち上げたロケットのサイズが今では約8,000倍以上に。それがH-IIBロケットです」。
何かに挑戦してそれが確実に報われるのであれば、誰でも挑戦する。報われないかもしれない極限のところで、情熱を持って継続していく。その長く困難な、でもやりがいに満ちた道を、ロケットに携わる人たちは皆歩んでいる。
「ロケット開発とは、すべてをロジカルに組み立てないと破綻してしまうもの。その組み立ての幅が広すぎて私自身、約10年前、イプシロンロケット開発に携わっていた頃に押しつぶされて挫折し、しばらくチームを離れたことがありました。とにかく一切の甘えが許されません。本当に苦しかったです。
その後、試験機1号機打上げのときは、プロジェクトメンバーではなかったのですが、当日内之浦のロケット射場近くで見送る機会に恵まれ、打上げの瞬間、我を忘れ『行け!行け!』と連呼し、遠ざかるにつれ自然と涙がこぼれてきました。あの経験のおかげで、自分の弱さを知り、自分の強みを再認識できましたし、今の仕事に繋がっています。
そういう意味では感謝していますが、今後どれほど科学技術が発展したとしても、ロケット開発は人類にとって厳しい挑戦であることに変わりはないと思っています。だからこそ、小さな成功体験を積み重ねることが大切で、自分もそうですが、若い世代にそういう体験をしてもらいたい。そのために何ができるのか、ずっと考え続けています」。
今後、種子島宇宙センターでは、H-IIA、H-IIBロケットの後継機となるH3ロケットの試験機の打上げが控えている。
「次世代の大型ロケットであるH3ロケットを信頼あるものにするためには、これまで通り、H-IIA、H-IIBロケットを確実に打ち上げてこそ得られるものだと思っています。大切なことは、関係者一丸となり、その中で自分の役割を果たすこと。次の打上げはぜひ種子島で直接見られると良いですね。必ず打上げ成功につなげますから」。
見届けたい、必ず。原始の自然と最先端のロケットが融合する瞬間を。美しく、示唆に富んだその時間を。福添氏の言葉を受けて、心のなかで固く決意した。
水島七恵=取材・文 後藤武浩=写真
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