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若き日の栄光と挫折

宇留野は、学生時代、中学3年のときに全国制覇、高校2年のときに、ひとつ上の学年の中村俊輔(現ジュビロ磐田)らとともに全国選手権で準優勝を果たすなど、サッカー選手としては素晴らしいキャリアを歩んできた。
当然、Jリーグクラブのスカウト担当の目に晒されていたはずだが、高校を卒業するときの宇留野に、Jリーグクラブから誘いの声がかかることはなかった。
もちろん、当時はJ2やJ3がなかったという背景はあるが、いずれにせよ、Jリーガーになるという夢をかなえることができなかった宇留野は、当時、Jリーグに準加盟し、プロ化への移行を進めていた本田技研工業サッカー部に社員選手として入団することを決める。
近いうちにチームがプロ化し、Jリーグへの加盟が決まり、自身もJリーガーになるというのが、当時の宇留野が描いていた未来だった。自分の夢を実現するために、いちばんの近道だと信じての選択だった。
だが、宇留野が入団を決めて程なく、本田技研工業サッカー部はJリーグ参加を断念する。宇留野が頭の中のキャンバスに描いていた未来は、あっさりと白紙に戻された。
宇留野は、入団後すぐにサッカー選手としての壁にぶつかる。試合に出られないどころか、遠征にも帯同できない、紅白戦にすら出場できない、そんな苦しい日々が続いた。
当時、本田技研工業サッカー部でコーチを務めていた長沢徹(現ファジアーノ岡山の監督)とともに始めた居残り練習を繰り返しながら、自分の課題をひとつずつクリアしていき、入団3年目のシーズンに、ようやく、チームの主力としてプレーできるようになった。
こうして、ひとつずつ階段を登っていった宇留野だが、どんな人間にとっても、慣れとは怖いものだ。宇留野にとって、大企業の素晴らしい環境の中でプレーしていることが、いつしか「当たり前」になっていった。そして、宇留野からは、次第に、貪欲にサッカーに取り組む姿勢が失われていく。
「口では“いつかJリーガーに”なんて言ってましたけど、今考えれば、行動は伴っていなかった」。


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