連載「37.5歳から始める、タップダンス」
37.5歳からの新しい趣味として提案する「タップダンス」。
今回は、世界的タップダンサー・熊谷和徳の半生を追う【後編】。オーシャンズ世代である彼が、今、自身の人生について思うこととは?
>【前編】を読む 好きなことで生きていく辛さ
熊谷は憧れの地・ニューヨークで好きなことと向き合い始める。語学を学び、大学に通いながらタップダンスに明け暮れる日々。そして、ダンスシーンの変遷という点でも、熊谷は恵まれた環境に居合わせた。
「アメリカに行ってすぐ、『NOISE/FUNK』っていうブロードウェイのショーが始まったんですが、それがすごく革命的なショーでした。アフリカン・アメリカンの歴史をタップダンスを通して伝えていく、それがヒップホップの文化と融合してまさに新しいタップのスタイルが生まれるときでした。その場に僕も居合わせ、タップのテクニックだけでなく、文化として、生き方としてのタップを学ぶことができたのです。
自分が憧れていたタップダンサーたちから直々にタップを学ぶことができたその時期は、僕自身の人生を大きく変えました」。
そのブロードウェイの養成学校でプロフェッショナルな訓練を受け、大学へも通いながら7年間のニューヨーク生活を経て、26歳で帰国の途につく。
「その当時の日本のエンターテイメントの中には、タップダンスは全然存在していなくて。日本に帰ってきたばかりのときは、仕事がなかったからコンビニでアルバイトをしていました。店長候補まで行きましたよ(笑)」。
「好きなことで生きていく」ことはとても難しい。生きていくためにはお金を稼ぐ必要がある。お金を稼ぐためには、ときに好きなことをゆがんだ形で表現していかなければならない。
「日本でパフォーマンスをやり始めて一様に最初に言われたのは、『わかりやすくしたほうがいい』ということでした。ビジネスラインに乗せるために、『日本人にとってわかりやすく』という意味なのだと思いますが、どれも本質からずれるアドバイスだったと思います。
日本ではあまり馴染みのないタップを、エンターテインメントして表現していく。そのうえで自分が大事にしていることは、僕にタップを教えてくれた先生達や、タップの文化を困難の中で創ってきた先人たちに恥じないことをやり続けることでした。たとえ評論家に酷評されても、その部分は自分自身が続けていくうえでとても重要なことで、妥協できないんです」。
その後、自身のソロ公演に加え、国内外のジャズシーンを席巻するトランペット奏者の日野皓正やピアニストの上原ひろみ、さらには、cobaやハナレグミなど多彩なジャンルのアーティストとのセッションを重ね、タップダンスのイメージを覆す斬新なパフォーマンスが国内でも評価されるようになってくる。
「日野皓正さんとかcobaさんとか、インストのパイオニアみたいな人たちがすごく可愛がってくれたんです。彼らも苦労をされてきた方々なので感覚が同じというか、同じ文化、同じ言語の中にいる感じがしました。そうやって最初は、お客さんよりもアーティストの人たちが呼んでくれるようになって、それでだんだんと自分の公演もできるようになってきました」。
誤解を恐れずに言えば、熊谷は不器用な人なのかもしれない。決して自分をひけらかすような、誇張して周囲の目を引くようなことはしない。自分に自信が持てないうちは、他人をどうこう言うつもりもない。
ただ、どんなことを言われようと、どんな扱いを受けようと、自分の信じたものは決して譲らない。子供の頃から言語化できない熱い想いを抱きながら、黙々と自分に向き合いタップのステップでその想いを表現しようと努めてきた。
「『TAP』の映画に出ていたおじいさんのタップマスターたちには、実際にNYのジャズクラブのセッションで出会い、一緒に踊る機会が幸運にもたくさんありました。いつもユーモアに溢れていましたが、僕らにタップ以上の何かを与えてくれました。
彼らは人種差別が酷い時代も、踊ることでタップというアートを繋いできました。だからこそ、彼らの一音一音の音色の背後にはさまざまなストーリーがあり、それを聴くと僕は胸がいっぱいになって涙が出てきます。
その光と影という部分に強く共感を覚えました。次元が違うけれども、自分も高校時代に悩んでいたことと重なって『表現する』ということを学びました。自分の中で言葉にできないことがタップを通して表現され、解放される。それを本気でやり続けることで彼らと繋がることができたと思っています」。
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