37.5歳の人生スナップ Vol.32
2018.11.26
LIFE STYLE

“負けず嫌い”がゆえに、東京パラリンピックを目指すことになった男【前編】

車いすバドミントンの競技で活躍する小林幸平さん

「諦めの悪さで、ここまで来れたようなもんです(笑)」。

ユニフォームに身を包み、そう話すのは小林幸平さん(39歳)。

車いすバドミントンの競技で活躍する小林さんは、現在、ブリヂストンの社員として福岡の工場に勤めながら、アスリートとしてバドミントン漬けの日々を送る“サラリーマンアスリート”だ。

小林さんの務める甘木工場では、トラックやバス用タイヤの生産を主に行っている。小林さんは、社内システムの調整や改善を担当。出社して業務をこなし、午後はバドミントンの練習を行う。土日は、基本的に1日バドミントンの練習をして過ごすという。

輝かしい戦績を誇る小林幸平さん

日本障がい者バドミントン選手権(2016年)シングルス準優勝、パラバドミントン コロンビア インターナショナル2016シングルス準優勝、世界ランキング18位と輝かしい戦績を誇る小林さんだが、車いすバドミントンを始めたのは、わずか3年前。36歳のときだ。

交通事故に遭い、車いす生活となってから、サラリーマンアスリートになるまでの軌跡を追った。


17歳で事故に遭い、車いす生活に…… 絶望から前進へ。

1979年、福岡県朝倉市生まれ。幼い頃から体を動かすことが大好きだった。剣道に水泳、バスケットボールなど夢中になるスポーツはたくさんあったが、特にアスリート願望はなかったという。ただ、当然のように、自分はデスクワークよりも体を動かすような仕事をしていくのだろう、そうぼんやり思い描いていた。

17歳で交通事故に遭い、脊椎を損傷。当時の記憶はハッキリしていない部分も多い。

インタビューに応える小林幸平さん

「2カ月ぐらい集中治療室にいたらしくて、断片的な記憶しかありません。なんとなくクルマの下敷きになっていたような……。目が覚めたら病院で、家族がまわりにいた。『もう歩けないよ』と、医者から聞かされたことは覚えています」。

入院中は看護師や家族の手助けもあり、そこまで辛さは感じなかった。現実を突きつけられたのは、1年半の入院生活を経て、退院してからだった。

「今まで当たり前にできていたことが、できない。周りの目が気になって、かっこ悪い、恥ずかしい。車いすの自分を、そう感じていました。苦しくて、辛くて、死んだほうがラクなのかもと思ったりもしました」。

当時の気持ちを推し量ることは難しいが、本人の「退院してから2、3年間、生産性のない時間を過ごしている時期があった」という言葉からも、その絶望は伝わってくる。自分の障がいを受けいれることができない日々。それは20歳前後の若者にとって、当然の葛藤だっただろう。

そこから、どのように前を向けるようになったのだろうか。

そう尋ねると、「人間って苦しいことばかりでは絶えられない生き物なんだと思う」と呟いた。苦しみを味わったからこそ、絞り出せる言葉だった。

「下を見ててもキリがない、前を見るしかないと思った」。

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障がいとの向き合い方の変化。そして、車いすバスケとの出会い

そのきっかけのひとつになったのが、障がい者のための軽作業施設での経験だ。誘われてしぶしぶ通い始めたものの、そこの人たちと交流を深めるにつれ、障がいへの捉え方も変わった。

「施設で感じたのは、障がいがあっても何も変わらないのだということ。ほかの障がいを抱えてる人とも話してみたら楽しいし、相談できることも多くて、そこから自分の中の障がいへの見方も変わりました」。

そんななかで、車いすバスケットボールのプレーを観て、感銘を受けた。

実は、車いすバスケを観たのは初めてではなかった。事故に遭ってしばらくしてから誘われて観に行ったことがあったのだ。しかし、そのときは心に響かなかった。

「最初に車いすバスケを観たときは障がいを持ってる人が頑張ってるなぁぐらいで、何も感じなかった。でも、障がいへの見え方が変わってから、もう一度見たら、一人ひとりが輝いてみえた。できないことばかり数えて落ち込んでいた自分が、バカらしく感じました」。

障がいを受け入れ、車いすでスポーツをする人たちの前向きさに心打たれ、スポーツが大好きだった頃の自分を思いだした。

車いすバスケットボールのチームに所属し、実際にプレーを始めてみると、壁にぶつかることは少なからずあった。「こんなプレーがしたい」と憧れた選手は、小林さんよりも残存機能の高い(障がいの程度が低い)選手だったため、同じようなプレーを行うことは難しかったのだ。

「それでも頑張ることができたのは、僕が負けず嫌いだから。負けたくないって、一生懸命ボールを追いかけるうちに、できることも増えていきました」。

しかし本気で競技に打ち込むためには、移動のガソリン代や競技車の維持費など、何かとお金がかかる。きちんと稼げる仕事に就きたいと思った。

「高校を中退して、学歴もない。自分が今できる精一杯のことをやろうと思いました」。

そこで通い始めたのは障害者職業能力開発校だ。幼い頃から苦手意識を感じていた勉強だったが、机に向かい始めて、その面白さに気づいたのもこの頃だった。

「勉強のコツがわかるようになったら楽しくなってきて、開発校でとれる資格は、すべて取得しました」。

その生真面目さは「30年教えてきて、ここまで勉強した人ははじめて」と学校の先生も驚くほどだったという。努力のかいもあり、28歳で、小林さんはブリヂストンに入社する。

ただ、バスケットボールの練習が忙しく、定時退社続きの働き方に後ろめたさは募った。せっかく努力して大手企業で働けているのに、このままでいいのか。小林さんは仕事に集中するため、スポーツと距離をおくことを決める。

車いすバドミントンに出会うのは、その数年後の話。【後編】ではその過程と、東京パラリンピックへの道を追うことにしよう。


小島マサヒロ=撮影 藤野ゆり(清談社)=取材・文

# 37.5歳の人生スナップ# バドミントン# パラリンピック
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