障がいとの向き合い方の変化。そして、車いすバスケとの出会い
そのきっかけのひとつになったのが、障がい者のための軽作業施設での経験だ。誘われてしぶしぶ通い始めたものの、そこの人たちと交流を深めるにつれ、障がいへの捉え方も変わった。
「施設で感じたのは、障がいがあっても何も変わらないのだということ。ほかの障がいを抱えてる人とも話してみたら楽しいし、相談できることも多くて、そこから自分の中の障がいへの見方も変わりました」。
そんななかで、車いすバスケットボールのプレーを観て、感銘を受けた。
実は、車いすバスケを観たのは初めてではなかった。事故に遭ってしばらくしてから誘われて観に行ったことがあったのだ。しかし、そのときは心に響かなかった。
「最初に車いすバスケを観たときは障がいを持ってる人が頑張ってるなぁぐらいで、何も感じなかった。でも、障がいへの見え方が変わってから、もう一度見たら、一人ひとりが輝いてみえた。できないことばかり数えて落ち込んでいた自分が、バカらしく感じました」。
障がいを受け入れ、車いすでスポーツをする人たちの前向きさに心打たれ、スポーツが大好きだった頃の自分を思いだした。
車いすバスケットボールのチームに所属し、実際にプレーを始めてみると、壁にぶつかることは少なからずあった。「こんなプレーがしたい」と憧れた選手は、小林さんよりも残存機能の高い(障がいの程度が低い)選手だったため、同じようなプレーを行うことは難しかったのだ。
「それでも頑張ることができたのは、僕が負けず嫌いだから。負けたくないって、一生懸命ボールを追いかけるうちに、できることも増えていきました」。
しかし本気で競技に打ち込むためには、移動のガソリン代や競技車の維持費など、何かとお金がかかる。きちんと稼げる仕事に就きたいと思った。
「高校を中退して、学歴もない。自分が今できる精一杯のことをやろうと思いました」。
そこで通い始めたのは障害者職業能力開発校だ。幼い頃から苦手意識を感じていた勉強だったが、机に向かい始めて、その面白さに気づいたのもこの頃だった。
「勉強のコツがわかるようになったら楽しくなってきて、開発校でとれる資格は、すべて取得しました」。
その生真面目さは「30年教えてきて、ここまで勉強した人ははじめて」と学校の先生も驚くほどだったという。努力のかいもあり、28歳で、小林さんはブリヂストンに入社する。
ただ、バスケットボールの練習が忙しく、定時退社続きの働き方に後ろめたさは募った。せっかく努力して大手企業で働けているのに、このままでいいのか。小林さんは仕事に集中するため、スポーツと距離をおくことを決める。
車いすバドミントンに出会うのは、その数年後の話。
【後編】ではその過程と、東京パラリンピックへの道を追うことにしよう。
小島マサヒロ=撮影 藤野ゆり(清談社)=取材・文