37.5歳の人生スナップ Vol.19
2018.09.08
LIFE STYLE

元Jリーガー長谷川太郎から学ぶ、自らの才能を開花させる2つの方法【前編】

「トライアウトを3回も受けた選手、あんまり聞いたことないですよね。俺、諦めが悪いんですよ」。

笑いながらこう語るのは、ヴァンフォーレ甲府などでストライカーとして活躍した元Jリーガーの長谷川太郎氏(39)だ。

1998年に柏レイソルでプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた長谷川は、2014年に現役から退くまでの17年間で、なんと8つものチームを渡り歩いた。Jリーガーの平均引退年齢が20代半ばと言われるなか、なぜ長谷川は35歳までプロサッカー選手として生き抜くことができたのか。その理由に迫ってみたい。

 

プロ入り直後から直面した失業危機の連続

中学生の頃から柏レイソルの下部組織に在籍していた長谷川は、高校卒業と同時に、柏レイソルのトップチームに昇格するというかたちでプロ契約を結び、晴れてプロサッカー選手としての第一歩を踏み出した。

だが、プロとなった1998年から2001年までの最初の4シーズンは、目立った結果を残すことはできず、2002年に、当時J2だったアルビレックス新潟にレンタル移籍をすることになる。

カテゴリーをひとつ下げたレンタル移籍。プロの世界ではよくあるケースだが、レンタル移籍先で結果を出すことができなければ、元のチームに戻る道は絶たれ、解雇になることがほとんどだ。

長谷川は、崖っぷちから這い上がろうと必死にもがいたが、年間を通じて得点をあげることはできず、シーズン終了後には、非情にもチームから戦力外通告を受けることとなった。23歳の若者は、早くも人生で初めての失業を味わった。

「このとき、はじめてサッカーができなくなるんじゃないかという危機感にかられました。まだサッカーがやりたい。そんな気持ちで必死に合同トライアウトを受けました」。

トライアウトとは、所属チームを自由契約(つまり契約解除)となった選手が、チーム関係者の前で自己の能力をアピールし、契約を目指す場のことをいう。プロ野球のトライアウトの様子が、テレビ番組やニュースで放送されているのをご覧になったことがある方も多いのではないだろうか。

長谷川は、Jリーグクラブのスカウト担当を始めとするクラブ関係者たちが見守るなか、死に物狂いでアピールした結果、運も味方につけ、ゴールを奪うなどインパクトを残すことに成功し、当時J2で最下位争いをしていたヴァンフォーレ甲府との1年契約を手に入れた。

なんとか選手生命をつなぎとめ、再びサッカーができる喜びを噛み締めながらヴァンフォーレ甲府に加入したが、長谷川が生きる場所は、プロスポーツの厳しい世界。ここでも、再び不遇の時期を過ごす。公式戦に出場するどころか、紅白戦にすら出られない日々が続いたのだ。

こうして、この年のリーグ戦出場はわずか4試合にとどまり、翌年は半年契約になってしまう。そう、再び長谷川に訪れたのは、失業の危機だった。

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突然訪れたターニングポイント

再び崖っぷちに追いやられた長谷川だったが、キャリアのターニングポイントは、あまりにも突然に訪れた。

2004年のシーズンも折り返しが近づく第18節のコンサドーレ札幌戦で、途中出場という形でアピールのチャンスを得た長谷川は、後半終了間際に、見事なジャンピングボレーで決勝点となるゴールを挙げたのだ。

チームに勝利をもたらすこのゴールは、長谷川にとって、ヴァンフォーレ甲府への移籍後初ゴールでもあった。まさに起死回生のゴール。この1点をきっかけに出場機会を増やしていった長谷川は、この年19試合に出場し4得点を挙げ、翌年の契約延長をなんとか手に入れた。

プロサッカー選手として生きていくためのわずかな希望の糸をたぐり寄せた長谷川は、翌年、その才能を一気に開花させる。2005年、長谷川は、自慢の俊敏性とゴールへの積極的な姿勢を武器に、シーズン序盤から得点を重ね、リーグ戦で日本人最多となる17点を上げる大活躍をみせたのだった。

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大ブレイクの秘訣

紆余曲折を経て、自らの才能を証明することに成功した長谷川は、なぜ、突然に大ブレイクできたのだろうか。何かきっかけがあったのかを訊くと、長谷川は当時のことを思い出すように、ライバルだった玉田圭司選手(現名古屋グランパス所属)とのエピソードを語ってくれた。

「きっかけは、ブレイクする前年の2004年でした。当時、タマ(玉田圭司選手)が柏レイソルで大活躍し、日本代表にも選出されるようになっていたのですが、私が柏レイソルに在籍していた頃、タマとはチームメイトで、同じポジションを争うライバルでした。

そして、当時は、タマは控えで、私が出場していたんです。それが、タマは日本代表として活躍するようになっているのに、私はJ2の試合どころか、練習試合にすら出られない。この差は何なんだろうと考え、箇条書きでタマと自分の良いところ悪いところを書き出したんです。シュートは自分が良い、ここはタマが優れているっていうように。

その中で決定的に私が劣っていることがありました。

あるとき、偶然、タマのコメントが書かれた記事を読んだら、 “前を向いたら必ず仕掛ける”と書いてあったんです。監督が何と言おうと、タマには自分の意思があった。自分を持っていたんです。

その当時の私はどうだったかと言うと、試合に出たいがために、監督の考えに合わせてプレーすることが正しいと思っていた。でも、タマは、試合に出られなかったときでも、自分を貫いていた。そこが違うのかなと思ったんです」。

長谷川は、監督の顔色をうかがい、監督に合わせようとしている自分に気が付いた。そして、監督が変わるたびに全部ゼロになっていることに気が付いた。2004年シーズン、長谷川が崖っぷちから蘇ったのは、ライバルと比較しながら、自分の特徴を客観的に見つめなおし、自分の特徴を出し続けることにあったというわけだ。

後編に続く。

 

瀬川泰祐=写真・取材・文

# 37.5歳の人生スナップ# サッカー# セカンドキャリア# 長谷川太郎
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