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どこかで親は“不死身”だと思っていた


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ハリーさんの父親は半世紀以上にわたり、日本を拠点に国際報道の現場を牽引した、外国人特派員を代表するジャーナリストのひとりだ。ハリーさんにとってはヒーローのような存在だったという。

「病と向き合うタイミングは人それぞれで、年齢は関係ありません。もちろん頭でそれを理解していても、74歳というのは予想よりずっと早かった。家族の大黒柱であり、スーパーヒーローであり、一番の相棒でもあった父を、僕はどこかで不死身だと思い込んでいたんです。

だけど決定的に『これは危ういな』と感じたのは、父が仕事の打ち合わせに行かない日が増えてきたこと。ある時は、父が所属していた日本外国特派員協会から『お父さんがトイレから立ち上がれなくなっているので、助けに来てほしい』と連絡が入ったこともありました」。
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ハリーさんが常に身につけている父親の形見の指輪。

ハリーさんが常に身につけている父親の形見の指輪。


トイレから立ち上がれないのは、動作の開始が困難になったり筋肉がこわばったりするパーキンソン病の代表的な症状のひとつだ。さらにハリーさんの父親は、同じ頃に認知症も発症。身体の異変は確実に進行し、家庭内へと重くのしかかっていく。

「そこから、僕と母による24時間の在宅介護が始まりました。父は深夜2時や3時に突然起きて仕事へ向かおうとしたり、幻覚症状で『体に虫が這っている』と怯えたりすることもありました。健康なら一日に40、50回と何気なく椅子から立つ当たり前の動作も、父の場合は毎回介助が必要になる。体を抱きかかえて立たせるのは、本当に大変な肉体労働でした。

それに、僕らの顔がわからなくなると父は正当防衛のように必死で抵抗してきました。殴られたり叩かれたりすることが、珍しいことではなくなっていったんです」。

愛する家族が「憎らしい存在」になっていく



睡眠も削られ、心身ともに逃げ場のない夜が終われば、朝を迎え当たり前のように出勤する。当時、誰にも相談できなかった苦しい日々をハリーさんは「狂気」と振り返るが、それは約2年間、毎日続いた。

「30歳という年齢で介護を経験している同世代はいなかったので、話し相手はいませんでした。ストレスが限界に達していくなか、一番愛していたはずの家族が、いつの間にか憎らしい対象に変わっていったんです」。

そして、家族だけで抱え込む在宅介護は、あっけなく生活のバランスを奪っていく。

「精神的な余裕なんてゼロだから、父には相当きつい言葉を浴びせていたと思います。取っ組み合いになることも日常茶飯事で、時には手が出てしまうこともありました。こうして話している今も、当時の自分を思い出すとゾッとするほどです」。



親の介護がピークを迎えていたのは10年以上前のことだ。だが取材中、過去の記憶を辿るハリーさんの瞳が静かに潤む瞬間があった。

「知識もなく、向き合い方も分からず、父に対して優しくなれなかった罪悪感は、時間の経過とともに薄れてはきても、一生消えることはないと思います。きっと、人生の十字架として背負い続けるんじゃないかな。だからこそ、これから介護に向き合う人たちには、僕と同じミスを繰り返してほしくないんです」。

自らの過ちを「人生の十字架」として背負い続ける。30歳という若さで限界まで尽くした人がいまなお自分を責める姿には胸が締め付けられるが、当事者だからこそ抱える傷の深さが、その静かな言葉から伝わってきた。
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