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チャーチ、プラダを経てふたたび独立独歩の道へ


その名もジョセフ・チーニーはB.ライリー社でキャリアを積み、工場長として活躍したのち、1886年にノーサンプトンの北にある街、デズボローで看板をあげた。一人親方がアウトワーカーを取りまとめてものづくりをしていた時代のことである。
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転機は第一次世界大戦。ノーサンプトンは軍需景気に沸いていた。ジョセフ チーニーも負けじとグッドイヤーウェルト製法の底付け機を導入、量産態勢に乗り出した。最盛期には週産2500足に達したという。

ひと財産築いたジョセフ チーニーはここを勝負どころと定め、1920年に680万ドルもの資金を投入し、有限会社を設立した。3代目のディック・チーニーが海外展開に本腰を入れると、1966年には輸出部門のクイーンズアワード賞を受賞した。
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時を前後して、ジョセフ チーニーはある決断を下す。1964年、チャーチの傘下に入ることを決めたのだ。しかしながらそれはぼくらが想像するような買収劇ではなく、きわめて友好的なものだったとみるのが自然だ。



ノーサンプトンには靴の街ならではの互助精神がある。自社で手に負えない注文があれば他社に振る、仕事を融通しあう仲だった。日本でも昭和の時代にはありふれた光景である。

ディックには後継者がなかった。跡を継ぐ者がいないならうちで面倒みてやろう、となってもなんら不思議ではない土地柄だった。

その後の史実はご存じのとおり、1999年にプラダがチャーチグループを買収するも、それから10年後の2009年、ジョセフ チーニーを手放すことを発表する。これに待ったをかけたのが当時チャーチの役員だったチャーチ家直系のウィリアム・チャーチとその従兄弟のジョナサン・チャーチ。二人はジョセフ チーニーの経営権を手に入れた。

チャーチがジョセフ チーニーを吸収合併した当時の社長はウィリアムの父だった。息子がふたたび買い戻したというのはどこか日本人好みの物語で、これもいい。
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