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家具屋へ導いた好奇心と行動力

子どもの頃、父親のもの作りの姿勢を見て「不器用やなあ」と感じていたそう。

子どもの頃、父親のもの作りの姿勢を見て「なんか不器用やなあ」と感じていたそう。


黄瀬さんのもの作りの原点をたどると、幼い頃の何気ない日常に起因していた。
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「小学生の頃の写真には、夏休みの工作の宿題でミニカーを見ながら紙でポルシェを作っている姿が写っていたくらい、何かを作ることは好きだったみたいです。あと父と一緒に庭でペンキを塗ったり木を切ったり、毎朝畳の部屋をほうきで掃いていました。

書籍「Same TRUCK, New Engine A New Journey; 47 Furniture Stories,16 Reflections」の中のひとこま。やんちゃだった黄瀬少年も掲載されている。

書籍「Same TRUCK, New Engine A New Journey; 47 Furniture Stories,16 Reflections」の中のひとこま。やんちゃだった黄瀬少年も掲載されている。


ただ、いずれも当時は喜んでやっていたわけではなく、どちらかというと“やらされていた感”の方が強かったですね。でも今思えば、あの経験が全部今につながっている気がします」。

入学した高校は地元の進学校。周囲の人間の多くは大学進学を目標にしていたが、目的のない進学は自分にはしっくりこなかった。転機になったのは、アウトドア雑誌とマウンテンバイクだった。
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今回の展示会のために、黄瀬さんが自宅で使っているインテリアを、そのまま持ってきたという。

今回の展示会のために、黄瀬さんが自宅で使っているインテリアを、そのまま持ってきたという。


「小学生の頃からBMXやママチャリで山を下って遊び、中学生になるとマウンテンバイクをいち早く手に入れて、大阪近郊の金剛山を担いで登り、バーナーで湯を沸かしてコーヒーを淹れてクッキーを食べたり。高校生になるとオートバイで山を走り回るなど、アウトドアやその雰囲気を楽しんでいました。

そんな中で読んでいたアウトドア雑誌に、長野県松本市にある家具を作る学校が紹介されていたんです。当時は家具なんて気にしたことはなかったですが、ものを作るのは好きでしたし、何より爽やかな信州で家具を作りながら、山道をオートバイでいっぱい走れそうだったので、見学に行ってすぐに決めました」。

だが学生時代は、家具作りに真剣に向き合うことはなかったという。「冗談みたいですが、家具はほぼ作っていません(笑)」と笑顔を交えながら。

「例えばちゃぶ台の脚の畳み方がおもろいなって思ったら、ちゃぶ台を作ったり、工場のドアを作ったりして、なんちゃってな生徒でした」。

愛用しているボルサリーノのハットについている羽は、道端で拾った鳩の羽。いかにも黄瀬さんらしい”お洒落”。

愛用しているボルサリーノのハットについている羽は、道端で拾った鳩の羽。いかにも黄瀬さんらしい”お洒落”。


その後帰阪し、実家近くの椅子工房で三年間修業したのち23歳で独立。中古の機械一式を買い、プレハブ20坪の工場で家具屋を始めた。もちろん一人で。

しかし当時は材木を買うお金がなく、周りの畑や空き地で拾った木でスツールやコーヒーテーブルを作っていた。当時、まだ安かったメープル材を使ったシリーズの家具を梅田ロフトに売り込みに行き好評を得て、仕事っぽくなっていった。それから5年後、玉造にTRUCKが誕生する。97年の1月のことだ。

「振り返れば、すべては大きな決意よりも『一回やってみようか』の連続。それは今も変わらないですね。今もその辺に落ちているもので、”いいな”と思うものがあれば拾って使ってますから。好奇心と行動力だけで生きています(笑)」。
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