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二プシーハッスルが音楽の道への目覚めた理由
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アメリカの貧困地域に生きる黒人であっても、好き好んでギャング活動をする者は圧倒的に少ない。普通に考えて、自分の命どころか、愛する友人や家族すら危険にさらされる生活なんて誰もが望むわけがない。そんな状況から抜け出すために、日々悩み、葛藤をする人が昔から変わらずにいたのである。

危険な環境で生き抜く中で、ニプシー・ハッスルも音楽という道を選び、自らのコミュニティを再生しようと決意するまでには、いくつかの「目覚め」の瞬間があった。

ひとつは、10代で音楽制作に没頭し始めたこと。仲間たちがドラッグや抗争に呑まれていく中、ニプシーは中古の機材を自らの手で調達し、独学で録音・プロデュースを始める。ガレージでの簡易スタジオが、彼にとって「生き延びるための避難所」でもあったという。
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さらに彼の人生観を大きく変えたのが、父の故郷・エリトリアへの渡航である。2004年、19歳のときに初めてアフリカ大陸を訪れたニプシーは、家族のルーツと対面し、貧しくも団結力に満ちた人々と交流する中で、「自分はアメリカという“システム”の中でただ生きている黒人青年じゃない。もっと特別なルーツを持つ存在なんだ」と気づく。

この旅をきっかけに、彼は「目の前の暴力や欲望だけに流されるのではなく、世代を超えて影響を残す人間になりたい」と真剣に考えるようになったのだ。

帰国後、クレンショーで再び日常に戻った彼を待っていたのは、仲間の死と「日常に潜む終焉」だった。銃撃や警察の弾圧、刑務所送りになる若者たちを見送りながら、ニプシーは「次に死ぬのは自分かもしれない」という現実と直面する。

その恐怖の中から生まれたのが、「死ぬ前に何かを残さなければいけない」という焦燥感だった。ラップやビジネスを通して「自分の声」を記録し、金を稼ぎ、仲間に希望を見せる。そうしたビジョンを明確に持ち始めた彼は「All Money In No Money Out」という独立レーベルを設立。地元での音楽活動と並行して、教育や再開発にも関わるようになる。

このようにして、ギャングとして消耗されるのではなく、「生き方そのものでインスピレーションを与える存在」へと、ニプシーは自らの手で進化していったのである。

そして、彼の素晴らしいところは自身の地元、クレンショーで行われる「黒人同士の暴力」という悪循環を止めるべく、自身の音楽活動に留まらず、地域貢献にも力を注ぐ行動力を見せたこと。「最悪の環境を抜け出したい黒人青年たち」の希望の光として輝いたからこそ絶大な支持を受けていたのである。
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