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「スポンサーなんかつくわけがない」

生来楽観的な彼は、すぐにスポンサーや放送局も決まるに違いないと確信していた。ただ、吉本興業のほとんどの社員は、「賞金1000万」などという前代未聞の漫才イベントにスポンサーなんかつくわけがない、と思っていたらしい。

「私の同期が『谷のイベントはできるかどうかわかれへんから、スポンサーなんか探さんでええで』と部員に言っていたらしいという噂が、聞こえてくる始末でした」

メインスポンサー候補のオートバックスは、企画・制作部の松田永浩が紹介してくれた。当時の住野公一社長が興味をもっていると聞き、常務とともに東京本社にプレゼンをしに赴いた。

「住野社長からは大阪での漫才の盛り上がりを訊ねられました。正直まだブームとはいえませんでしたが、私は『もう大阪には(ブームが)来ています。吉本興業(大阪本社)の近くの千日前まで来ています』とかまをかけました。住野さんは、おそらく私の言葉を信じたふりをしてくださったんでしょう。大阪出身でお笑い好きな社長は、この企画に期待をしてくださり、メインスポンサーになってくれました」

スポンサー交渉よりも難儀だったのが、放送局との交渉。東京のキー局はテレビ朝日のみを残し全局ノーの返事。同局にも一度は「漫才で視聴率が取れるはずがない」と断られた。1週間後の8月10日には、記者会見でM-1グランプリの開催を発表する予定だった。

そんな中、テレビ朝日に系列局・朝日放送から出向していた常務から電話があった。「大阪で持つ全国放送特番枠を空けられる」と。常務には谷の熱量が伝わり、「漫才番組を大阪の局がやらなくてどうするんだと思ってね」と言われるほど、心を動かすことができた。

ちなみに谷は、著書『M-1はじめました。』内で具体的な各局とのやりとりも明かし、有名プロデューサーの名を実名で出して断られた経緯まで描いている。

「書いている途中は気にしませんでした。後から『あそこまで触れなくてもよかったかなあ……』と迷ったんですが、その時はもう校了済みでした(笑)」


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