黒、赤、青の3色展開。「リバプール・クープ」1万7600円/パトリック (カメイ・プロアクト 03-6450-1515)
パトリックを表舞台に立たせた「リバプール」が9月、復刻する。
将軍の異名をとったフランスサッカー界の至宝、ミシェル・プラティニのトレーニング用に開発されたフットウェアである。
当時は「プラティニ トレーナー」といったが、スポンサー契約が切れて「リバプール」に改めた。シューズを提供していた「リバプールFC」にあやかったという。長らくラインナップされてきたモデルだったが、2013年を最後にディスコンとなっていた。
【写真30点】「パトリックの名作が復刻」の詳細を写真でチェック フランス語でトロフィーの意となる“クープ”をお尻につけた「リバプール・クープ」はその名にふさわしい一足に仕上がった。
木型もデザインも当時のそれを忠実に再現。スパイクのピンをモチーフにしたトレッドパターンも踏襲された。唯一の違いはPUからレザーにアップデートし、スマートになった2本線だ。現行のパターンに倣ったものである。
それだけでも物欲が刺激されるけれど、見逃せないのがカラーバリエーションである。「プラティニ トレーナー」と呼ばれていたころは黒一色だったが、後年、赤と青が加わった。今回ラインナップされたアンニュイなそのトーンは、まさに往時のそれだ。
「ご覧いただけばわかるように『リバプール・クープ』は従来のパトリックにはない、ボリューミーな体躯をその特徴とします。太めのパンツとの相性は抜群ですし、厚底ブームに飽きたユーザーの気分にフィットするだろうと考えました」(竹原健治さん、商品企画セクションサブマネージャー)。
スパイクの技術を底上げした大立者
創業当時の工場の様子。
1892年にフランスの村、プゾージュでユージン・ベネトーが創業したパトリックは2代目、パトリスの代に花開く。
無類のサッカー好きだったというパトリスは1931年、サッカースパイクのピン位置に関する論文を発表し、商工省からInvention Certificate(発明証) を与えられた。その前年、1930年はあのFIFAワールドカップがはじめて開催された年だった。世界的祭典に大いに刺激を受けただろうことは想像に難くない。
研究心に火がついたパトリスは立て続けにあらたなアイデアをかたちにする。軽量で安全なアルミ素材のピン(それまではスチールだった)、深い芝、硬い芝、濡れた芝などグラウンドの状態に応じたソール……。
PATRICK, L’Avance Technique(パトリック、最先端の技術のために)――掲げたスローガンに恥じない快進撃を続けたパトリスはアディダスの2代目であるホルスト・ダスラーとも親交があったという。
「ふたりは同時代に、同じ冒険に繰り出したといっても過言ではありません。ホルストはプゾージュに遊びに来たこともあるんですよ」とはパトリスの息子、シャルルの弁だ。
パトリスは満を持して1945年、みずからの名を英語読みしたパトリックをブランド名として世に打って出た。
その名はそうそうにスタープレイヤーの目にとまる。バロンドールを2回受賞したケビン・キーガン、そしてミシェル・プラティニが履いてワールドワイドなポジションに駆け上がった。
ミシェル・プラティニが契約選手だったころのカタログ。
ミシェルは倍の契約金を提示したアディダスを袖にしてパトリックを選んだという。
ミシェルはその理由を、「職人気質に惚れた」と語っている。ケビンがパトリックに足を滑り込ませた経緯はいまとなっては確かめようもないが、技術への評価がモチベーションのひとつになっているのは間違いない。
順風満帆な注文に応えるべく、パトリスは村の人々を次々に雇い入れた。1960年代の社員数は700人にまで膨らんだ。そうしてフランスNo.1のサッカーシューズメーカーにのぼりつめ、ヨーロッパにおけるサッカーシューズの知名度ランキングではアディダス、プーマに続いて3位にランクインした。
1986年のカタログより。
ご存じのように現在、フランス本国のパトリックは消滅している。おそらくは職人気質と家族経営という路線のそれが限界だったのだろう。産地移転が本格化するなか、おらが村で数百人もの従業員を雇ったというのだから経営者としてのセンスは疑われる。
しかしだからこそ、パトリックに惹かれてならない。そんなパトリックのルーツとなる「リバプール」の復刻である。時代感とか服との相性なんてすっ飛ばして、手に入れたいと思う。
蛇足ながら付け加えれば、パトリスのアイデアは盗まれることもしばしばあったが、彼はどこか満足げだったという。
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