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言葉②ビビったり、マイナスな時の悔しさが未来を動かす力になる



Q:矢野さんの選手としての歩みについても聞かせていただきます。東北福祉大からドラフトで中日に指名されたわけですが、入った当初、プロの世界をどのように感じましたか?

いや、もう無理やなと思いましたし、そもそも僕がプロ野球に行けるなんて思ってなかったんです。それこそ、プロに入ったところで燃え尽きてしまっているというか、キャンプ初日で、ちょっと違うなって感じでしたね。大学の時にできていたようなこともできなかったり、ただ単に日々を過ごしてるっていうスタートでしたね。

Q:矢野さんのキャリアを振り返ると、97年の阪神へのトレードが大きかったようにも思います。矢野さんにとって阪神への移籍は、どのようなものだったのですか?

僕は、人生でダメなことがめっちゃプラスなんですよ。東洋大学落ちた時もそうですし。「クソ」と思ったので「東洋と試合して東洋に勝ちたい」とか、中日からトレードで出されたときも「中日には絶対負けるもんか」と思いました。

星野さん(が監督の時)に出されたんで「星野さんには絶対負けたくない」と思って、逆にそれがモチベーションになってやれましたし、自分の中で起こってるマイナスなことが、結局そこで力をくれたなって思うんですよね。



Q:阪神では野村監督との出会いもありました。同じキャッチャーというポジションでもありますが、教えを受けた中で特に影響を受けたことはどのような部分ですか?

プロで僕も7年以上やってきてて、野村さんのミーティングで、高橋由伸を例に出して「お前らこんな天才的なバッターと同じように打てるのか」っていう話から、「何で補うねん」って言われたんですよ。「頭しかないやろ」って。

癖であったり、配球であったり、いろんなところで情報を拾って投げる前の確率を高くして、それをミスなくヒットすることで、「ストレートから遅い球も変化できる天才的なバッターに追いつけるぞ」っていうのを教えてもらえた時に、「俺は成績を残せないんだから、それをやるしかないな」と思ったんです。そういう根拠を自分の中で持ちながら打席に立っていったら、1本のヒットの価値が高くなって、初めて3割打てたんです。





Q:05年にも優勝を果たし、その後球界を代表する捕手となったわけです。求められるレベルも高くなっていく中、いかにモチベーションを高い状態で保っていたのですか?

正直僕は、現役時代、未来を描きながらやれたタイプではなかったです。どっちかというとビビってやってたんです。実際、2003年は3割2分8厘打っちゃって、「うわ、どうすんねん来年」って思いました。「こんな数字俺出せるんや」と思った一方で、ビビったんですよ。

ビビるから、練習するんですよ。だから練習はやった自信はありますけど、「3割5分打って首位打者獲って、日本一のキャッチャーになるんだ」みたいなことはあんまり描けなかったですね。



Q:先を見ないこと、背伸びしないことが42歳まで現役を続けられた要因だったと?

そうだと思いますね。でも1個ぐらいは何か勝ちたいなというのはあるんですよね。40歳で古田さんは3割打ったから、40歳で3割打ちたいっていう目標に僕は変わったし、古田さんがいた時代にゴールデングラブ賞を獲れたっていうのは、僕の中の自慢でもあります。

勝てると思ってはやってないし、そんな良い未来を描けたわけじゃないんですけど、ビビりながら、でもビビったら動くってことを大事にしていましたね。


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