当記事は「FLUX」の提供記事です。元記事はこちら。 ホノルルにある2軒の飲食店「Namikaze」と「EP Bar」では、ヴィンテージっぽさが漂い、好みを重視した飲食体験を堪能できる。今回は古き良き、をアップデートしたおかずや「Namikaze」をオープンさせた著名なシェフ・ピールさんの思い出とハワイにおける惣菜店の歴史を共に紹介。
私がサンディエゴで子供時代を過ごしたのは1980年代のことだ。リビングのソファーの背もたれには、ネオンの花をあしらった、かぎ針編みの黒のアフガン織物が掛かっている。
床に座って母のレコードコレクションをぱらぱらとくくり、ビージーズやローリングストーンズを聴き、お気に入りのアルバムのジャケットをこっそり持ち出しては、寝室の壁に貼り付ける。
兄さんの部屋にはアタリのテレビゲーム機とツイード張りの回転椅子があり、私はその椅子に乗って何時間も回転しながら、アクションゲームの「フロッガー」で遊んでいた。40年たった今でも、当時の美学にほっこりとした気分になる。
というのも、古きものは良きものだからだ。それゆえに、私たちはヴィンテージのアロハシャツを着たり、クアキニ通りのリリハベーカリーのカウンターに座ったりする。
シェフのジェイソン・ピールさん、DJのライアン・ミヤシロさん、クリス・ナカノさん、ダニエル・ウンさんをはじめ、ホノルルの起業家たちは、懐かしいものに秘められた力や、新たな扉を開く際に、過去の産物を取り入れれば輝きを放つことを知っている。
ホノルルでは、20世紀の初めから「オカズヤ」の総菜が、長時間働く地元の労働者にとっての栄養源だった。1900年までに、ホノルル港にプレートランチを載せた台車が到着する前から、ハワイには既に100軒のオカズヤがあったという。
日本の駅では、電車に長時間揺られる乗客向けに、種類を豊富に取り揃えた持ち帰り専用の駅弁屋さんがあるのを見かける。オカズヤが駅弁に似ていることから、オカズヤの伝来は、サトウキビプランテーションで働くためにハワイに来た日本人の契約労働者によるものだと考える人もいる。
1920年代、移民たちはサトウキビ畑を離れて自分たちで商売を始めた。惣菜店を始める者が多く、「オカズヤ」という名で知られるようになった。作り置きしたお手頃価格の総菜をカフェ形式で提供する、地元のデリカテッセンのことだ。
ワイアルアの「サガラストア」は既に閉店しているが、モイリイリの特産品を扱う「フクヤ」は、創業80年以上たった今でも朝6時半には行列ができる。この形式はハワイ特有のもので、尽きることのない懐かしさを呼び起こすが、新しい世代によるてこ入れが望まれていた。
著名なシェフであり、「ミロカイムキ」「パパカーツ」「ハウツリーラナイ」などの開店に尽力したジェイソン・ピールさんは、店員が客のいるテーブルまで飲食物を運ぶ、いわゆるフルサービスの居酒屋の開店準備を進める一方で、自身の新たな飲食店「Namikaze(ナミカゼ)」で昔懐かしのオカズヤを始めることを決めた。
日本人とカウアイ島民の親から生まれた少年がそうだったように、この店でひと口食べることに、ピールさんの子供時代の味が蘇る。
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