ただ、若くして急逝してしまった歌手の尾崎豊氏がそうであるように、完結していないことで伝説的な作品になったという意見は正しいだろうか? 全国優勝まで描かれる期待が、道半ばで幕を閉じてしまったから、私たちはまだその世界にいるのだろうか?
なぜ半年に満たない物語で終わらなければいけなかったのか
私はそうは思わない。確かに、スポーツ漫画の難しいところは、全国優勝などの目的を掲げた瞬間に、途中過程が「どうせ勝つんでしょ」と思われてしまうところにある。かといって最初のほうの敵を弱くしてもつまらないので、結果的にどんどん敵の強さがインフレ化していく、あるいは展開が強引になってしまうことが多い。
そういったマンネリを避け、半年にも満たない期間で終わったからこそ、その刹那さがいつまでも残っていると言えばそうかもしれない。けれど、道半ばで幕が下ろされたのではなく、最も大事な瞬間はきちんと描かれきった、私はそう考えている。
それを象徴するのが物語の終盤30巻の#268だ。桜木は倒れた妄想の中で「バスケットは好きですか?」と晴子に聞かれた時のことを思い出す。そして次の瞬間立ち上がり「大好きです。今度はうそじゃないっす」と答える。「今度は」という言葉に込められた、夢中になれるものがついに見つかった喜び、あの瞬間が作品のピークだったと思うのだ。
人は、全身全霊で夢中になっている人に惹かれる。私にとってスラムダンクとは、桜木花道という男が、心から夢中になれるものを見つけた物語だ。それは「努力」や「友情」や「勝利」に勝る感動を与えてくれた。桜木は好きな人を振り向かせるために始めたバスケにいつしか夢中になった。ここに自分の居場所があると思えた。何を失っても最後までやり抜こうと思えた。
1人の男が、自分が心から探していた「何か」に出会えた、スラムダンクはそんな物語ではないだろうか。
私たちも皆、そんな「何か」を探して生きているが、現実世界ではなかなか簡単には見つからない。好きなことを仕事にするどころか、本当に好きなものが何であるかを掴めている人のほうが少ないだろう。
最初は図体がでかくケンカが強いだけの主人公が、いつしかバスケのことだけを考えて一心不乱に努力し続ける姿に、居ても立っても居られなくなった読者は多いのではないか。
桜木花道がバスケに出合ったように、自分も夢中になり続けられる何かを見つけたい、それに向かって走り続ける勇気を、スラムダンクは時を超えて私たちに与え続けてくれるのだ。