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世界の人々はみんな等しく海でつながったひとつの民

ホクレア乗組員 デニス・チャンさん●1951年、ハワイ・カウアイ島生まれ。ハワイ大学カウアイコミュニティカレッジで准教授を務め、ハワイ学を教えている。「ホクレア」との関係は1970年代から築きはじめ’85年にタヒチへの航海に参加。以来、数度の航海を経験し、近年は伝統航海の英知を次世代に引き継ぐ活動を行う。カヌービルダー、ミュージシャンとしての顔も持つ。

ホクレア乗組員 デニス・チャンさん●1951年、ハワイ・カウアイ島生まれ。ハワイ大学カウアイコミュニティカレッジで准教授を務め、ハワイ学を教えている。「ホクレア」との関係は1970年代から築きはじめ’85年にタヒチへの航海に参加。以来、数度の航海を経験し、近年は伝統航海の英知を次世代に引き継ぐ活動を行う。カヌービルダー、ミュージシャンとしての顔も持つ。


さて、古代から連綿とこの世界が続くことを示す「ホクレア」での旅路を目にして、2つのことに興味を覚えた。

1つが各寄港地で見られた到着セレモニーについてである。そのセレモニーでは、ニュージーランドではマオリ族が、南アフリカではズールー族が、それぞれ伝統的な踊りで歓迎の意を表すような模様が繰り広げられた。

なるほど、自然と向き合い、人智を尽くして海を渡る目的には“多様性”の確認も含まれていたのだな。それは“ルーツに敬意を示し他者との違いを認めることが大切だ”というメッセージなのだな。寄港のシーンを観るたびにそのような思いを抱いた。

だがそれは思慮の浅い考えだったようである。クルーのひとりとして数度の「ホクレア」航海を経験したデニス・チャンさんは「むしろ航海では違いより多くの共通点に気付かされました」と言ったのだ。

「確かに多くの地に立ち寄るたびに、土地土地の伝統儀式で受け入れてくれました。自分たちが何者であるかを私たちに伝え、また私たちの存在を認め受け入れてくれるその儀式は、土地ごとに様式や風体が異なります。

しかし根底にある価値観は変わらないのです。端的に言うなら、それは互いに“人と人である”ということ。海を越えてあらゆる港を訪れるたび、その思いを強めていくのが『ホクレア』での航海でした」。

とはいえ「ホクレア」自体、最初からその境地に達していたわけではない。復活後の最初の航海ではクルーの間で確執があったのだという。

「記念すべき航海ではありましたが、ハワイアンであるか否かという民族的ルーツが争点となり亀裂が生じていたといいます。

参加したクルーのほとんどはハワイアンだったものの、『ホクレア』を所有するポリネシア航海協会の創始者3人のうち2人が白人だったのです。

復活に多大な貢献をした両名でしたが、ハワイの象徴とも呼べるカヌーが蘇ったことにデリケートになりすぎた人がいたのでしょう。それでもタヒチを目指す目標を達成し、次のプロジェクトが模索される中でクルーを選出する基準は変わっていきました。

民族的なルーツよりも、一人ひとりが“自分が何者であるのか”を深く理解し、航海の成功のために自身のアイデンティティを持ち寄れる人物像を重視することになったのです」。

そうして“ギブバック”、つまり貢献し続けられるクルーたちが乗り込むようになる。

そして、以降の「ホクレア」が体現していった世界観が「ONE OCEAN, ONE PEOPLE, ONE CANOE」。「私たちはみな、ひとつの海でつながれたひとつの民だ」という意味だ。

この世界観にデニスさんも’85年に行われた自身初の航海で触れることになる。航海はハワイからタヒチに向かうもので、洋上で過ごした日数は34日。ハリケーンに遭遇し、船が進まない赤道の無風地帯で暴風雨をやりすごすといった日々は、常に巨人に向かっていくようなものだったという。

それでも水平線のかなたにあるべき島の姿を見つけて航海を無事に終えられたのは、「誰もが互いを信頼し、力を合わせて船を前に進めたから」だった。

そして使命感を何より大切に、クルーとの密度の濃い時間を何度となく経験することで「ONE OCEAN, ONE PEOPLE, ONE CANOE」という考え方は身体化され、旅先で出会う人には“違い”以上に“共通点”が目に入るようになっていった。


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