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サザン以前の歌謡界やフォーク界では、抽象的な物言いとなるが「意味が音を支配している」感じを受ける。対して洋楽では「意味と音が拮抗している」。具体的に言えば、意味だけではなく、リズム感や韻も重視しながら、言葉を並べていくような感覚が、洋楽の歌詞にはある。

それを日本語でも実現できないか、意味性が多少損なわれた、音と拮抗するような歌詞でもいいじゃないか、というのが若き桑田佳祐の主張だったと思うのだ。言わば「歌詞」「作曲」「編曲」の三権分立宣言。

ただ、それにしても「胸さわぎの腰つき」はラディカルである。どんな腰つきなのか、まったく意味が分からない。さすがに当時のスタッフたちも、この言葉は行き過ぎと考えたらしく「胸さわぎのアカツキ」「胸さわぎのムラサキ」という代案を出したらしいが、おかしいのは、それらの代案のほうが、より「意味から自由奔放」なところ。

なお、《勝手にシンドバッド》のシングルジャケットは、左側で踊っている(ような)桑田佳祐の腰のベルトを、赤い手のようなものが掴んでいるデザインになっているのだが、あれは、「これこそが『胸さわぎの腰つき』だ」と指し示しているようにも見える。

意味が不明な分、音韻的には、先に述べたように「砂まじりの茅ヶ崎」とぴったりと呼応している。この2つのフレーズの母音の並びを比較する。

・砂まじりの茅ヶ崎/すなまじり・の・ちがさき=ウアアイイ・オ・イアアイ
・胸さわぎの腰つき/むなさわぎ・の・こしつき=ウアアアイ・オ・オイウイ

先頭の「ウアア」(すなま=むなさ)、先頭の単語の5文字目の「イ」(すなまじ『り』=むなさわ『ぎ』)、5文字の単語と4文字の単語を結ぶのが「オ(の)」、お尻の4文字単語の最後が「イ(き)」(ちがさ『き』=こしつ『き』)と、見事に揃っている。

さらには意味として、「砂まじりの茅ヶ崎」という地名の入った具体性と「胸さわぎの腰つき」というまるっきりの抽象性の対比で、歌詞の世界が一気に広がっていく。この2つのフレーズの組み合わせは、ちょっとした奇跡のようにも感じる。

「江ノ島が見えてきた」

以上見てきた「砂まじりの茅ヶ崎」と「胸さわぎの腰つき」のサンドイッチ構造は、掛け値なく《勝手にシンドバッド》の革新性を体現している。ただし、これだけだと革新性が前面に出すぎて、あれほどのヒット(50万枚)にはつながらなかったのではないか。

もし、歌詞のフレーズごとの売上貢献枚数が計算できるとして、50万枚のうち20万枚が「砂まじりの茅ヶ崎」と「胸さわぎの腰つき」の革新性によるものだとしたら、それに20万枚を上乗せしたのは「江ノ島が見えてきた」だと考える(あとの10万枚は「今 何時?」)。


5/5

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