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つまり、「砂まじりの茅ヶ崎」は、レトロとしての「茅ヶ崎」だったということである。78年の茅ヶ崎ではなく、60年代の茅ヶ崎。70年代サーファー文化の前、茅ヶ崎が東京の衛星都市になるよりも前。桑田少年が見つめていた、素朴で猥雑な海っぺりの一地方都市としての茅ヶ崎──。

言い換えると、より前へ前へ、より新しく新しくと、洋楽を教科書とした「モダニズム」一方向で進化してきた日本ロックの転換点は、そのアンチとして、レトロをも呑み込んだかたちでやってきたということになる。

当時の音楽シーンに抗(あらが)うように、「ローカリズム茅ヶ崎」「アンチ・モダニズム茅ヶ崎」を背負って桑田佳祐が登場。それは、まさに革命のはじめの一歩にふさわしかった。

しかし、テンポを速めることでローカル感とレトロ感は失われ、また、雑誌『POPEYE』(76年創刊)を起点とした、折からのサーファーブームの影響もあり、その「茅ヶ崎」は、皮肉にも真正面から受け止められた。そして桑田佳祐は、その後の「湘南」ブームの立役者と位置付けられてしまうのだが。

桑田佳祐の姉・岩本えり子の著書『エリー©──茅ヶ崎の海が好き。』(講談社)には、2005年に桑田佳祐が、茅ヶ崎のことを詠んだ短歌が載せられている。この歌、特に「殺風景」というフレーズを読む限り、「砂まじりの茅ヶ崎」が「ローカリズム茅ヶ崎」「アンチ・モダニズム茅ヶ崎」だったと確信するのだ。

茅ヶ崎を 小粋に魅せし 殺風景
海辺(うみ)であったり 街並み(まち)であったり

「胸さわぎの腰つき」

しかし、そんな「砂まじりの茅ヶ崎」よりも決定的なフレーズは、「砂まじりの茅ヶ崎」と対を成しながら、1番の最後にドシっと構える「胸さわぎの腰つき」である。

デビューアルバムのタイトルも『熱い胸さわぎ』となっているように、「胸さわぎ」(細かい話だが「胸騒ぎ」ではなく「胸さわぎ」)という言葉は、サザンデビュー時の1つのアイコンとなっていたと記憶する。

決定的だった理由として、この言葉の意味不明さがある(そもそもタイトル「勝手にシンドバッド」自体も意味不明だが)。言い換えれば、「意味から自由奔放」。桑田佳祐の言葉がもたらした、最も大きな功績はここにある。


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