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2019.07.04

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負けないエース・斉藤和巳を支えた亡き先輩のまっすぐな生き様

当記事は、「東洋経済ONLINE」の提供記事です。元記事はこちらから。

2013年7月、現役復帰断念を表明し、記者会見で涙を拭ったソフトバンクの斉藤和巳 2013年7月、現役復帰断念を表明し、記者会見で涙を拭ったソフトバンクの斉藤和巳(写真:共同通信社)


どれだけ優れた能力を持つ選手でも、ひとりの力では一人前になることはできない。指導者に導かれ、仲間と切磋琢磨しながら、少しずつ大きくなっていくものだ。

1995年ドラフト会議で福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンク)から1位指名された斉藤和巳。少年野球からプロを引退するまでの野球人生を追った『野球を裏切らない――負けないエース 斉藤和巳』をもとに、彼の亡き先輩について取り上げる。
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のちに2度も沢村賞を獲得するエースに成長する斉藤に、プロとして手本を示してくれた投手がいる。

ホークスの背番号15を背負った藤井将雄だ。唐津商業から日産自動車九州を経て、1994年ドラフト4位でプロ入りした。

藤井は、全国的に知られた名前ではなかったが、プロ1年目から先発を任されて4勝を挙げ、1999年には中継ぎ投手として最多ホールドを獲得、ホークスのリーグ優勝、日本一に貢献している。スターぞろいのホークスの中では突出した存在ではなかったものの、「炎の中継ぎ」として人気を集めた。

当時のことを振り返った斉藤和巳氏 当時のことを振り返った斉藤和巳氏(写真:インプレス提供)


藤井は、斉藤がまだ1軍と2軍を行ったり来たりしているときに、かわいがってくれた先輩だった。

「2軍のキャンプで同部屋になったことをきっかけに、藤井さんにはよくかわいがっていただきました。お酒が好きな方だったので、『和巳、今日も行くぞ』とよく食事に誘ってもらって。練習をするのもお酒を飲むのも、何に対しても一生懸命。騒ぐときでも全力投球でした。人柄がすばらしくて、先輩からかわいがられ、後輩からは慕われていました。

藤井さんの悪口は聞いたことがないですね。先輩にキツいことを言っても、険悪な雰囲気にならない」。

藤井は陰で支えてくれた先輩だった


つねに肩に不安があり、プロ野球選手として殻を破れない斉藤を、陰で支えてくれた先輩だった。

「プライベートではそんなに口数が多くなくて、練習中のほうがよく声を出していた印象があります。藤井さんから学んだのは、つねに一生懸命にやることの大切さです。藤井さんはプロ入りが26歳と遅かったんですが、若い僕たちとダッシュするときでも負けず嫌い。僕より遅かったときには『もう1本いくぞ』と言っていました。勝つために全力を注いだ方でした」。

高校時代に泥にまみれて練習したのに、プロになってユニフォームを汚すことを嫌がる選手もいる。「もう高校生じゃないんだから」と。

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「藤井さんから、シンプルに、一生懸命にやることの大切さを教えられました。泥臭く打ち込むことのカッコよさを知りました。何でもさらっとやる選手もスマートでいいですけど、『プロでも泥臭く』というのにはまた違うよさがある。

ポジションに関係なく、みんなに愛されていて、藤井さんのまわりにはいつも笑いが絶えませんでした」。

藤井の生き方が斉藤の中の希望


1999年の日本シリーズ前の身体検査で、藤井の体に異常が見つかった。そのときに下された診断は末期の肺がん、余命は3カ月。優勝パレードの後に入院した藤井は入退院を繰り返しながら、2000年には2軍で登板を果たしている。

1999年当時のことも話した斉藤和巳氏 1999年当時のことも話した斉藤和巳氏(写真:インプレス提供)

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「僕が最後に会ったのはリーグ優勝が決まる前。千葉遠征で先発する予定だったんですが、マジック1になっていたこともあって、怖くて……」。優勝が決まる試合を任されることに対して、斉藤には恐怖心があった。少しでも緊張を和らげるために、藤井のところに出向いた。

「藤井さん本人もそうでしたが、僕も本当の病状については知りませんでした。顔だけでも見たいと思って病室に行ったんですが、そのときにはもうかなりしんどそうで。『藤井さん、お疲れ様です』と声をかけても、『おお、和巳か……』と声は返ってくるんですが、顔は左側の窓を向いたまま。藤井さんの右側にあるいすに座って話しかけたら、『こっちに来んか、顔が見えん』と言う。顔の向きを変えることもつらい状態だったんでしょうね」。

斉藤は藤井の顔が見えるところにいすを持っていって座り、30分ほど話をした。「最後に『行ってきます』と言って、病室を出ました。藤井さんに何を言われたのかはよく覚えていません」。

余命宣告から1年が経った10月13日、藤井は帰らぬ人となった。ホークスがリーグ優勝を決めた6日後のこと。31歳の若さだった。

「その後、藤井さんが亡くなったということを、テレビの緊急速報で知りました。優勝が決まって少ししか経ってなかったので、いきなり崖から突き落とされたみたいになって……涙が止まりませんでした。

余命3カ月の診断だったと後で聞きましたが、1年間も生きて、入退院を繰り返しながら2軍でも公式戦で投げた。『どんな精神力なんやろう。どれだけ強い人なんやろうか』と思いました」。

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