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どれだけ優れた能力を持つ選手でも、ひとりの力では一人前になることはできない。指導者に導かれ、仲間と切磋琢磨しながら、少しずつ大きくなっていくものだ。
1995年ドラフト会議で福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンク)から1位指名された斉藤和巳。少年野球からプロを引退するまでの野球人生を追った『野球を裏切らない――負けないエース 斉藤和巳』をもとに、彼の亡き先輩について取り上げる。
のちに2度も沢村賞を獲得するエースに成長する斉藤に、プロとして手本を示してくれた投手がいる。
ホークスの背番号15を背負った藤井将雄だ。唐津商業から日産自動車九州を経て、1994年ドラフト4位でプロ入りした。
藤井は、全国的に知られた名前ではなかったが、プロ1年目から先発を任されて4勝を挙げ、1999年には中継ぎ投手として最多ホールドを獲得、ホークスのリーグ優勝、日本一に貢献している。スターぞろいのホークスの中では突出した存在ではなかったものの、「炎の中継ぎ」として人気を集めた。
藤井は、斉藤がまだ1軍と2軍を行ったり来たりしているときに、かわいがってくれた先輩だった。
「2軍のキャンプで同部屋になったことをきっかけに、藤井さんにはよくかわいがっていただきました。お酒が好きな方だったので、『和巳、今日も行くぞ』とよく食事に誘ってもらって。練習をするのもお酒を飲むのも、何に対しても一生懸命。騒ぐときでも全力投球でした。人柄がすばらしくて、先輩からかわいがられ、後輩からは慕われていました。
藤井さんの悪口は聞いたことがないですね。先輩にキツいことを言っても、険悪な雰囲気にならない」。
藤井は陰で支えてくれた先輩だった
つねに肩に不安があり、プロ野球選手として殻を破れない斉藤を、陰で支えてくれた先輩だった。
「プライベートではそんなに口数が多くなくて、練習中のほうがよく声を出していた印象があります。藤井さんから学んだのは、つねに一生懸命にやることの大切さです。藤井さんはプロ入りが26歳と遅かったんですが、若い僕たちとダッシュするときでも負けず嫌い。僕より遅かったときには『もう1本いくぞ』と言っていました。勝つために全力を注いだ方でした」。
高校時代に泥にまみれて練習したのに、プロになってユニフォームを汚すことを嫌がる選手もいる。「もう高校生じゃないんだから」と。
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