「藤井さんから、シンプルに、一生懸命にやることの大切さを教えられました。泥臭く打ち込むことのカッコよさを知りました。何でもさらっとやる選手もスマートでいいですけど、『プロでも泥臭く』というのにはまた違うよさがある。
ポジションに関係なく、みんなに愛されていて、藤井さんのまわりにはいつも笑いが絶えませんでした」。
藤井の生き方が斉藤の中の希望
1999年の日本シリーズ前の身体検査で、藤井の体に異常が見つかった。そのときに下された診断は末期の肺がん、余命は3カ月。優勝パレードの後に入院した藤井は入退院を繰り返しながら、2000年には2軍で登板を果たしている。
「僕が最後に会ったのはリーグ優勝が決まる前。千葉遠征で先発する予定だったんですが、マジック1になっていたこともあって、怖くて……」。優勝が決まる試合を任されることに対して、斉藤には恐怖心があった。少しでも緊張を和らげるために、藤井のところに出向いた。
「藤井さん本人もそうでしたが、僕も本当の病状については知りませんでした。顔だけでも見たいと思って病室に行ったんですが、そのときにはもうかなりしんどそうで。『藤井さん、お疲れ様です』と声をかけても、『おお、和巳か……』と声は返ってくるんですが、顔は左側の窓を向いたまま。藤井さんの右側にあるいすに座って話しかけたら、『こっちに来んか、顔が見えん』と言う。顔の向きを変えることもつらい状態だったんでしょうね」。
斉藤は藤井の顔が見えるところにいすを持っていって座り、30分ほど話をした。「最後に『行ってきます』と言って、病室を出ました。藤井さんに何を言われたのかはよく覚えていません」。
余命宣告から1年が経った10月13日、藤井は帰らぬ人となった。ホークスがリーグ優勝を決めた6日後のこと。31歳の若さだった。
「その後、藤井さんが亡くなったということを、テレビの緊急速報で知りました。優勝が決まって少ししか経ってなかったので、いきなり崖から突き落とされたみたいになって……涙が止まりませんでした。
余命3カ月の診断だったと後で聞きましたが、1年間も生きて、入退院を繰り返しながら2軍でも公式戦で投げた。『どんな精神力なんやろう。どれだけ強い人なんやろうか』と思いました」。
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