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2021.10.26

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福島で見た「希望と義理人情」。ほぼ無職の芸人が震災機に“福島移住”した深い訳

当記事は「東洋経済ONLINE」の提供記事です。元記事はこちら
なぜ無職同然だったぺんぎんナッツが「福島のタレント」として認められたのか? 写真左がボケ担当のいなのこうすけ氏、右がツッコミ担当の中村陽介氏(写真:よしもと住みます芸人47webより)
東京や大阪で成功するだけが人生ではない。それは芸人の世界でも同じだ。都会で売れるという目標を捨て、あえて地方での活躍を目指した「よしもと住みます芸人」たちに密着。
震災後の福島に10年住み、今では県民の多くから愛される「ぺんぎんナッツ」。移住するまで“ほぼ無職同然”だった2人がなぜ縁もゆかりもない土地でレギュラー番組を獲得し、今では「福島のタレント」としての地位を確立できたのか? 執筆者はルポライターの西岡研介氏。
「すっかり遅くなっちゃいましたね」「さすがにこの時間じゃ、もう待ってくれては……いないよねぇ」「こりゃ、今晩は野宿ですかね」「いなのさんは、慣れてるでしょ」。
2011年4月27日午後9時過ぎ、福島県郡山市に向かう車内で、「ぺんぎんナッツ」の2人は、こんな軽口を叩き合っていた。
この日、吉本興業東京本部(東京都新宿区)での「出発式」を終えた2人は、知人の車で、郡山を目指していた。その日の夕方には着く予定だったが、途中、いくつかの寄り道が災いし、待ち合わせ場所のJR郡山駅前に着いたころには午後10時を回っていた。

「福島県住みます芸人」としての再出発

「『住みます芸人』に決まった時に、まずは郡山で家、探さなきゃってなって。僕ら2人とも地元(福島)出身じゃないんで。それで地元の不動産屋さんに『僕たちこういう理由で、福島に住むことになったんです』って連絡したら、『家がない』って」。
こう話すのは、ツッコミ担当の中村陽介(39)だ。
当時、郡山では、東日本大震災と、東京電力福島第一原発の事故で大きな被害を受けた、富岡町など双葉郡の住民の多くが、避難生活を送っていた。また、被災者のための「民間借り上げ住宅」の影響もあり、市内の賃貸住宅の供給が逼迫していた。
「けど、その不動産屋さんの人がめちゃいい人で。『そういう事情で、福島に住んでくれるのなら、なんとか探します』って、震災で半壊したお店だったんですけど、探してきてくれて。家賃もめちゃ安くしてくれて」。
中村の回想を、相方で、ボケ担当のいなのこうすけ(42)が引き取る。
「その鍵渡しの日が、『出発式』の当日だったんです。郡山駅に着いた時にはもう(午後)10時過ぎてて。不動産屋さんもさすがに待ってくれてはないだろうと諦めてたら、待ってくれていて。家に案内してくれて、『頑張って下さい』って励まされて……。いやいや、僕ら『お笑い』しかできませんからって」。
こうして、「福島県住みます芸人」としてのスタートを切ったぺんぎんナッツの二人は今、その「地元の不動産屋さん」のイメージキャラクターとしてCMに出演。郡山駅前には、2人が並ぶ同社の大きな看板が掲げられている。
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東日本大震災の発生から約1カ月の2011年4月27日から始まった、吉本興業の「47都道府県 あなたの街に“住みます”プロジェクト」。
全国各地での地域貢献や活性化を目指し、所属芸人を47都道府県に派遣。実際に住まわせ、「住みます芸人」として活動させる――という企画だ。
この10年で延べ213組328人のタレントが「住みます芸人」となり、地元のテレビやラジオに出演するだけでなく、ご当地のPRや、「まちおこし」に「村おこし」など地域活性化事業にも参加。これまでに就任した観光などの「大使」は313件、全国でのレギュラー番組は238本、担った地域活性化事業は800件を超え、現在も99組145人の住みます芸人が、全国で活動している。
だが、その一方で、このプロジェクトは、それまで東京や大阪といった、競争の激しい大都会で芽が出ず、くすぶり、埋もれていた芸人が、「ローカルタレント」として再生する、あるいは「地域活性化の担い手」として生まれ変わるチャンスにもなったのだ。その「住みます芸人たちの10年」を追った――。

ホームレスだった時期もある崖っぷちの2人

プロジェクト開始当初は、「出身芸人が地元に戻る」というケースが、仕事の面からも、経費面からも望ましいとされていた。
さらに、震災直後ということもあり、47都道府県の中でも、岩手、宮城、福島の被災3県への派遣は、会社側からの「要請」ではなく、芸人自身の「志願」が条件とされた。が、前出の中村の出身地は千葉県、いなのは福岡県の出身で、2人ともそれまで、福島はもちろん、東北地方にも縁がなかったという。
「最初はもちろん『住みます芸人』に決まったら、千葉か福岡のどちらかに行こうっていう話はしてましたよ。その年(2011年)の1月に『住みます』の説明会があって、『若手は全員参加』みたいな感じで(ヨシモト)∞ホールに集められて。その時には、もう二人の間では、これ(住みます芸人)でいこうという感じでした」(中村)。
「コンビ組んだのは2006年だったんですけど、鳴かず飛ばずで。仕事といったら月に3本の(お笑い)ライブとか、たまに入るエキストラぐらいで、後はアルバイトばかり。バイトで生計立ててました。
いや、正確には(生計)立てれて無かったですね(笑)。中村さんはパチンコでバイト代、全部スっちゃって、家賃払えず、アパートから追い出されてましたし、僕なんか一時期、ホームレスしてましたから。沼袋(中野区)のほうに『平和の森公園』っていう公園がありまして、そこに1年半ほど住んでました」(いなの)。
「その間にもどんどん若手が入ってきて、埋もれていくって感じだったんで。このまま東京でやってても、一花も咲かせられないのかなって。お互い、そこそこ芸歴も長くなって、歳も歳だし。はっきり言って、崖っぷちだったんですよね。そこに『住みます芸人』の話が来たんで、だったら千葉でも福岡でも、どっか新しい土地でお笑い活動やるのもいいかな、と」(中村)。
だが、その2カ月後の東日本大震災で、2人の心境に変化が生じたという。
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