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運命を変えたブルックリンのアーティストたち


当時はストリートカルチャーから転身して、ミュージシャンやファッションデザイナーになる人たちがちらほらと出てきた時代だった。
「海外遠征先で、時間ができると絵なんか描いたりしていたので、ものづくりだったら打ち込めるなと思ったんです。ただ、僕、経済学部だったので、実利的なところを見てしまって(笑)。当時は佐藤可士和さんや大貫卓也さんたちが大人気で、代理店のデザイナーがスターだった。だから僕も商業美術を目指そうと思ったんです」。
まずは表現を学ぶため、1年間リハビリを続けながら、夜間の専門学校に通った。持ち前の性格とスノーボード時代の人脈を駆使して、雑誌にイラストを描いたり、スノーボードブランドのボードやウェアのデザインしたり、カタログも作った。だが、代理店の面接を受けてみても、結局はうまくいかなかった。
このとき25歳。デザインをイチから学ぶには遅い出発と言っていいだろう。そこで松山が目をつけたのがニューヨークという土地だった。
「新宿~渋谷間ぐらいの小さなエリアの中に、世界一のメディアがあって、世界一のアーティストがいて、世界一のパフォーマーも、金融も、なんでもある。スノーボードをやっていたときから上昇志向が強かったので、勉強するなら世界一の場所でやりたいと思ったんです」。
松山は選んだのは、NY私立美術大学院プラット・インスティテュート。
「プラクティカルな教育を受けて、すごいクリエイティブなことをするぞ!って勢い込んで行ったわけです」。
ところが最初の授業で、その目論見は打ち砕かれる。
「1年の売上表、アニュアルレポートを作るって授業だったんです。スキルを身につければ就職はできるから、みたいな教育。それって僕が日本でしたくなかったことと一緒じゃないかって途方に暮れてしまって……」。
そんなときに出会ったのがブルックリンのアーティストたちだった。
「彼らは、当時最も治安が悪いと言われていたエリアに建つ、映画『ゴースト』に出てくるような巨大な倉庫を借りて作品を制作をしていたんです。貧乏だけど、飯は食えている。お高くとまった美術の世界じゃなくて、等身大のアーティストライフを見てすごくカルチャーショックを受けました」。
松山から見た彼らは輝いていた。こんな人生の選択肢があるのか。僕はこれをやりたい。そう強く思った。


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