「看板娘という名の愉悦」とは……PR会社で働く女性から編集部にタレコミが入った。
「この方とお話をするためだけにお店に寄りたくなるような素敵な女性パティシエさんです。見た目のかわいさはもちろん、人柄からくる温かい接客にも感動しますよ」。
絶賛である。さっそく訪れたのは2014年にオープンした代々木上原のビストロ「36.5℃ kitchen」。
店内には噂の看板娘の姿。あとで知るが、この長いステンレスのカウンターはお値段80万円だ。
ワインメニューを拝見。「土壌のミネラルやヨード感をビシビシ感じます!」など、解説が力強い。
白ワインが大好きだという看板娘にオススメをセレクトしてもらったところ、スペイン産の「フィンカ・パレーラ クラー」が運ばれてきた。グラスで1000円。
こちらは群馬県高崎市出身の阿部ちひろさん(31歳)。高校を卒業後、都内の製菓調理専門学校に入学した。2年前からこの店でスイーツおよび接客担当として働いている。
料理、スイーツともにお任せでお願いします。
カウンターに並んだのは「北海道産昆布とフルーツトマトのリゾット」(1040円)、「キウイとモッツァレラチーズのカプレーゼ」(1100円)。そして、ちひろさん作の「ホワイトフロマージュテリーヌ」(700円)だ。
リゾットは通常2人前サイズを1人前でオーダーした。ホワイトフロマージュテリーヌとはマスカルポーネを使った蒸し焼きのチーズケーキで、上には竹炭のチュイルが乗っている。
そんなちひろさんの実家は父母で営むトマト農家。
「子供の頃は食卓がトマトだらけで、あまり好きじゃなかったんです。お母さんも忙しいから、白ご飯にスライスしたトマトを添えて『まだ仕事が残ってるから、これ食べといて』とか(笑)」。
しかし、専門学校に入学すると同級生のトマト愛に触れる。しかも、料理にもお菓子にも使える万能野菜だという点にも感動した。
あれ、名字が違うということは……。
「はい、結婚しています。以前は髪も腰ぐらいまであったんですが、パーティの余興みたいな感じでバッサリ切りました」。
専門学校卒業後、就職先に選んだのは高級ブランドのパーティ専門のケータリング会社。最初はフード担当だった。
2年目からはスイーツ担当となり、パティシエ人生が始まる。
「ケータリングのお菓子はサイズが数センチ角。ピンセットを使って仕上げるんですが、もともと細かい作業が好きだったので、だんだん楽しくなりました」。
トマト農家の娘という矜持も忘れていない。
「皮とヘタの部分がチョコで、中には実家のトマトで作ったジャムが入っています。夏にぴったりの爽やかなスイーツですね」。
チョコレートで形からトマトに見立てて作られている。
ちひろさんがスイーツ作りに目覚めたのは高校2年生のとき。スーパーで安売りのクリームチーズを買ってきた母親に「これでなんか作ってよ」と言われたのだ。
「家にあった料理の本を見ながらベイクドチーズケーキを作りました。これが、家族にめちゃくちゃ好評で(笑)。お母さんも『ご近所に配ってくるわ』と嬉しそうでした」。
褒められて伸びるタイプのちひろさんは、以来、休日は料理やお菓子を積極的に作るようになった。
ケータリングの仕事は楽しかったが、「そろそろ次のステップに」という思いもあった。そのタイミングで声をかけてくれたのが、店のオーナーシェフ・宮本 岳さん(34歳)。なんと、専門学校時代の先生だ。
「でも、人見知りなのに初めての接客体験。ワインの注ぎ方からお皿を下げるタイミングまで、今は別の店で働いている男性スタッフに徹底的に仕込まれたんです。当時はそこのトイレでよく泣いていましたね(笑)」。
しかし、今ではすっかり社交的になったちひろさん。お客さんにも積極的に話しかけており、閉店後に常連さんと飲みに行くこともしばしばだ。
なお、自粛期間中は“おうち料理”の頻度も増えた。作ったものはインスタグラムにアップしている。
最近の自信作は「全粒粉と三温糖のバナナケーキ」。
「甘さ控えめで、バナナの風味を活かした焼菓子です。ラムを効かせているので、温めると香りが立ちます」。
料理の腕前も本格的だ。
どちらも水は使わず、実家で採れたトマトの水分で煮込んでいる。トッピングは半熟卵、ハラペーニョ、フライドオニオンだ。
さらに、圧巻なのがイラストケーキ。アニメ『3月のライオン』から公式に依頼を受けて製作したこともある。
「イラスト部分は全部チョコレートで描いています。土台はシャインマスカットを使ったショートケーキです。めちゃくちゃ時間かかって大変なんですが、大好きな作品なので無我夢中で作りました」。
料理以外の大きな変化も2つある。ひとつは自宅でトレーニングを始めたこと。
「パーソナルトレーナーさんに来てもらって、簡単に言うと『くびれ』を作るトレーニングをしています。とくに、ピラティスリングを使ったトレーニングが本当に辛くて……。私は『悪魔のリング』と呼んでいます(笑)」。
もうひとつは念願の漫画専用部屋を作ったこと。大量の漫画はそれまで床に置きっ放しだったが、友人がDIYで作ってくれた棚に収納した。
最後に、ずっと気になっていた店名の由来を聞こう。
「36.5℃は、いわゆる微熱の状態。人よりほんの少し暖かい気持ちを持った、人よりほんの少しやる気を持っている人が集まるキッチンにしたいーー。そういう願いを込めた店名です」。
なるほど、“ほんの少し”というのがポイントですね。では、最後に読者へのメッセージをお願いします。
【取材協力】36.5℃ kitchen住所:東京都渋谷区上原1-32-18 YYビルB1F電話番号:03-5453-7002https://miyamotogaku.wixsite.com/365ckitchen 「看板娘という名の愉悦」Vol.114好きな酒を置いている。食事がことごとく美味しい。雰囲気が良くて落ち着く。行きつけの飲み屋を決める理由はさまざま。しかし、なかには店で働く「看板娘」目当てに通い詰めるパターンもある。もともと、当連載は酒を通して人を探求するドキュメンタリー。店主のセンスも色濃く反映される「看板娘」は、探求対象としてピッタリかもしれない。
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石原たきび=取材・文