スタンツァーニはエンジニアリングだけでなく、マーケティングに関しても明確なポリシーを持っていた。それは「人と同じコトはやりたくない」「常にイノベーティブでありたい」という強いこだわりだ。そして、彼のこだわりが、そのままランボルギーニのフィロソフィーそのものとなり、カウンタックが誕生したのだと考える。
スタンツァーニが20代でCEOに任命された理由
ミウラの登場はランボルギーニのブランド認知を高めたし、世界中からオーダーが殺到した。しかし、ランボルギーニの自動車事業は、相変わらず厳しい経営状況におかれていた。草創期の若いメーカーとして、多大な投資を続けなければならなかったし、激化する労働運動による生産性の低下も悩みの種であった。経営というスタンスで見るなら、ランボルギーニの自動車事業の将来は決して明るくなかった。
そんな1967年ある日のこと、ランボルギーニの将来を決定する重要な会議が行われた。拙著『
フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』(KADOKAWA)より引用してみよう。
1967年にスタンツァーニは数名のランボルギーニ社の役員と共にフェルッチョの自宅へと呼ばれる。「それも深夜の0時を廻るというとんでもない時間だった。フェルッチョは部屋に入って来るなり唐突にこう言った。
“ランボルギーニの自動車部門を閉じようと思う”と。皆は大いに動揺して、必死に思いとどまるように言ったさ。耐え難い沈黙が続き、次にフェルッチョの口から出てきた言葉を聞いて私は、再び心臓が止まるかと思う程驚いた。何と“オマエ(注:スタンツァーニ)に経営のすべてを任せる。そうでなければ事業は畳む。それが結論だ”と言うじゃないか!」。
フェルッチョは客観的に自らの資質を判断し、これからの自動車事業はやる気や経営者のカリスマだけでは運営できないことを理解していたし、技術に明るくバランス感覚に優れた次世代にバトンタッチしなければ会社の存続は不可能だと結論付けていたのだ。
まだ20代後半のスタンツァーニを社内の多数の先輩達を差し置いてCEOに任命するというリスクを取ったことはフツウではないし、起業して、たかだか5年にもならない新規事業をすぐに閉じようという判断もフツウではない。しかし、戦後の動乱期においてフェルッチョが経験した企業の寿命は、はかないものであって、誰よりも早くその方向性をダイナミックに修正できる者がウィナーとなるという理論をブレずに実行した訳だ。
結局、スタンツァーニはそのオファーを受けた。若きCEOの誕生である。しかし、ここでなぜ今までチーフエンジニアであったジャンパオロ・ダラーラが選ばれなかったかと、不思議に思わないだろうか。
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