日本の文豪たちが“書く味”には、そのときの情景や感情がリアルに描かれ、妙に食欲をそそる。
技術の進歩によって、いつでもどこでも旨いものが食べられる現代では感じづらくなった季節の味をじっくり読んで味わってほしい。
團さんと檀さんの「夏の味」
林 信朗=文
四季折々の気候に逆らわず、共に生きるのが、日本人の生活様式のエッセンスであるなら、折にふれ、作家たちがそんな日本的季節観を、例えば食べ物にのせて自作に忍ばせるのは至極自然なことである。僕が自分の作文の師と勝手に決めつけている作曲家、團伊玖磨さんの名エッセイ集『パイプのけむり』にも、食を取り上げた数多くの作がある。
例えばお酒好きの團さんは、高温多湿な日本の気候には焼酎が合うと同書所収の「鬼ごろし」の中で力説している。むろん夏の酒ということである。
「仕事が一区切り付いた夕方、『鬼ごろし』や『島の華』のオン・ザ・ロックを作って、太平洋に沈んで行く太陽を眺めているうちに、僕は、焼酎の酔いが、最も島の風土に合った、美味なものであることを発見した」。
島とは仕事場がある八丈島だ。その高い湿度に日本酒は合わず「高い温度に疲れた身体に、焼酎は見事な涼味を与えるのである」と続けている。
今でこそ焼酎は一般的だが、團さんがこれを執筆した昭和30年代、焼酎は安酒・ローカル酒というのが一般の見方。そんな偏見を團さんは軽々と飛び越えてしまう。三井財閥に連なり、男爵の父を持つエリート一族に生まれながらも團さんはツウぶったところが微塵もない。俗説に惑わされず、自分だけの美味を探求するスタイルは、今も色あせず、爽やかだ。
もうひとり、姓の漢字は違うが、檀一雄さんは『檀流クッキング』がベストセラーになった、料理と食べものが大好きな美食作家の先駆者である。
子供時代を九州で過ごした檀さんは、エッセイ『廃絶させるには惜しい夏の味二つ』で大正時代の久留米市近郊の夏の味、冬瓜を懐かしむ。祖父の晩酌用に檀さんの祖母が用意するのは「鱈とトウガンの葛汁」。北海の干鱈を戻し、昆布だしで冬瓜とともに煮て、葛を加えて卸し生姜の香気を散らす。冬瓜の「ツンと物忘れをさそうような瓜の匂い」に少年の頃の夏の夕べが重なる─。
生涯日本を、世界を転々とした檀さんが晩年を九州・福岡で過ごしたのも、そんな夏の味が呼び覚ますノスタルジアに導かれてのことだったのだろうか。
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