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「ダットサン」で世界に名を馳せる

戦前の日産を支えたのは、前述の「ダットサン」だ。日本初の自動車量産工場とされる横浜工場で、自動車部品から最終組み立てまで一貫で行う体制で生産された。
昨今のCMで「すべての答えは、技術で出す。」や「ぶっちぎれ 技術の日産」といったキャッチコピーが使われていたが、技術力の高さはこの頃から折り紙付き。当時から「技術の日産」として知られていたという。
戦時中、乗用車の生産は中断され、戦後もすぐには自由な開発が行えなかったが、それでも、1952年にはイギリスの自動車メーカー「オースチン」と技術提携。戦中戦後に後れを取った技術を貪欲に吸収していく。
その結果、1958年には、当時世界で最も過酷なオーストラリア大陸一周ラリーに自社開発の「ダットサン 210型』」で出場してクラス優勝。品質面でも、1960年には業界で初めて、総合品質管理の進歩貢献を行った団体に送られるデミング賞を受賞した。
 

日産「スカイライン」の誕生

1966年、日産は経営難の「プリンス自動車工業」を吸収合併。「スカイライン」「グロリア」などの車種と、中島飛行機・立川飛行機の流れを汲む優秀な技術者を得ることとなる。ちなみにその少し前、1964年の第2回日本グランプリで「スカイライン」はポルシェを1周だけ抜いたのだが、当時としては「国産車がポルシェを抜くなんて!」な時代。そこから「スカイライン」伝説が始まった。
プリンスとの合併後に初めて生まれたスカイラインは3代目の「C10型」、通称「ハコスカ」である。この3代目「スカイライン」では、はじめてスペシャリティグレードである『GT-R』もお目見えした。
写真は1972〜1977年に販売された4代目スカイライン、『C110型』。旧車として未だに人気が高い「ケンメリ」である。「ケンメリ」の由来は、キャッチコピーの「ケンとメリーのスカイライン」から。
その後、スカイラインは「ケンメリ」「ジャパン」と名車を輩出。現在の12代目まで続くことになる。
1980年代以降、徐々に経営に陰りが見えた日産だが、1980年代後半、いわゆるバブル景気では、「Be-1」を始めとしたパイクカーや「シルビア(S13型)」、「スカイラインGT-R(R32型)」などがヒット。一時は盛り返すが、1990年代前半にバブルが崩壊した後は、経営危機に陥ることとなる。
写真はバブル時代に大ヒットした「シルビア」。ノンターボモデルのQ’sとターボモデルのK’sが存在していた。
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年間登録販売台数1位を獲得した「e-POWER」

この経営危機を救ったのが、1999年の行われたルノーとの資本提携。CEOとなったのが、カルロス・ゴーンである。大胆なリストラやコストカット、車種ライナップの整理と新型車投入などにより、業績自体はV時回復。国内シェアも2位の座へと回復した。
もちろん、ゴーン体制の負の遺産もあり、それが現在の苦境の原因ともいわれていることも付け加えておく。
写真は、ゴーン体制で復活した2007年デビュー当時の「GT-R」。「GT-R」はもともと、「スカイライン」の最上位グレードだったが、日産のフラッグシップスポーツモデルとして、スカイラインの名から解放されて登場した。
技術面では、相変わらず業界をリード。電気自動車の「リーフ」をいち早く市場に導入し、現在では世界一売れているEVとなっている。
「ノート」にはエンジンで発電しモーターで走る「e-POWER」を搭載。この仕組みが高い支持を得て、同車は2018年に日産車で初となる年間登録販売台数1位を獲得した。また、現行型「スカイライン」は、国産車で初めて手放し運転を可能にするシステム「プロパイロット2.0」を搭載している。
カルロス・ゴーンの醜聞以降、経営不振もあり明るい話題が少なかった日産だが、2020年は国内10年ぶりのブランニューモデル「キックス」の発売や初のクロスオーバーEVの「アリア」の発表など、注目されることも増えてきた。強みの技術力を存分に活かした日産の新たなる躍進に、期待が高まる。
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