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そもそも「読み書きそろばん」とは?

ここで「読み書きそろばん」の意味について、確認しておきたい。まず「読み」とは単に文字が読めるということだけではない。相手の伝えたいことを正確に読み取るまでのことを含んでいる。また「書き」も同様に文字が書けるだけでなく、自分が伝えたいことを正確に書いて表すことまでが求められているのだ。
そして最後の「そろばん」についても、道具として「そろばん」を使いこなすということではなく、数字を把握して計算し、答えを導き出す能力までを指している。
改めて知れば、「読み書きそろばん」は生きていくことに必要な基盤であることを再認識するとともに、大人になった自分自身が本当にちゃんとできているのか、ちょっと自信がなくなるところではある。子供の能力低下を憂いているどころではない。SNSの炎上トピックをウォッチしてみれば、大人の読み書き能力も十分に危ういことがわかるはずだ。
 

個性の時代でも「一般」を大切にしたい

社会生活においては、この読み書きそろばんを含むより広範な「一般教養」までも必要であるのは言うまでもない。この「一般教養」という言葉も改めて辞書を見てみれば、「広く人間として要求される教養。また専門的教養の基礎としての広い教養」となる。
専門的ではなく、特に尖ってもいない。人に語って聞かせても面白がられることもなく、個性の発揮に直接結びつくものでもない。ただ“あって当たり前”のもの。だからこそこれは、共通の知識レベルにあることを前提としたコミュニケーションに欠かせない言語にも喩えられよう。
言葉が通じなければ、その世界で活躍することが不可能、というわけではない。言葉の壁すらものともしない才能の持ち主も中にはいる。しかし、コミュニティの一員としてやっていくには、やはり言語の取得は前提にあって然るべきだろう。面白がられないものであっても、一般教養は個性を伸ばすことと同様に必要なものではなかろうか。
 

「一般教養」は机に座っているだけでは十分に得られない

もっとも、子供の個性を伸ばすことのみを最優先にし、小学生の一般教養にあたる教科の勉強をおろそかにしても構わないとまで考える親は少ないはず。教育熱心な親であれば、勉強は人並み以上にこなさせたうえで、さらに何か秀でた個性や一芸を伸ばしてあげることに腐心しているといったところか。
しかし教養は、いわゆる“勉強”をこなせば身につくものでもない。教養とは広く学び、身につけた知識によって養われる理解力、心の豊かさである。それは机に向かう勉強以外にも、読書を始め、音楽、美術など幅広い体験を得なくては身につかない。さらに一般教養を社会人になるまで取得しておくべき常識とするなら、マナーや礼儀を習得することもその範囲に含まれる。
しかもそれらは、ネットで効率よく得ることはできないもので、体験を通じて得ていくしかない。さあ、ここからが家庭の実体験係、オトーチャンズの出番である。勉強と個性の育成が、親が与える教育のすべて、なんてことにならないよう、子供には薄く広く、あらゆることに触れる機会を作ってあげられるように頑張ってもらいたいところだ。


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