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ベンチャーブームで挫折。「都落ち」に悩んだ時代

平和酒造が主催協力する日本酒マーケット「AOYAMA SAKE FLEA」は毎回大人気。
──山本さんのそのチャレンジ精神はどこから生まれるんですか?
幼少期は父母から「実家を継ぎなさい」と言われていたし、小さい頃からビジネスはやりたいと思っていました。でも、大学のときにベンチャーブームがきて、それこそ堀江さんが台頭していく局面を見ていたんです。
そこで、実家を継ぐのはカッコ悪いんじゃないかと思うようになって。ゼロから会社を興して、ヒルズ族になって、シャンパンを浴びるように飲む。それがビジネスパーソンだと勘違いしていました(笑)。
──当時のITベンチャーブームはすごかったですもんね。
僕もベンチャー企業に就職したんですけど、やはり20代の僕には0から1を生み出す力はないと痛感しました。それで、0から1は難しいけど、実家の酒蔵へ戻って1を10することはできるんじゃないかって考えたんです。ただ、都落ち感はありましたし、戻ってすぐの頃は「俺は酒蔵のオヤジとして、和歌山に埋もれて死んでいくんだろうか……」と落ち込んでいましたね(笑)。
──落ち込まなくても……(笑)。
でも、今はSNSもありますし、地方だからといって都落ち感もない。むしろ、東京で飲み会なんかがあると、「僕は和歌山で酒蔵をやってまして、今日は日本酒を持ってきました!」って言うだけで、とても興味を持ってもらえる。地方であることが武器になる時代が来たということが、とても嬉しいですね。
 

父は日本酒に氷をボコボコ入れて飲んでいた

家業を継いだ山本さんが最初に生み出したヒット作は、梅酒の「鶴梅」だった。
──実家に戻ってからはどんな動きをされていたんですか?
和歌山県の酒蔵ということで、最初のヒット作は梅酒の「鶴梅」でした。和歌山は全国の梅の収穫量の3割以上を占める梅の名産地です。梅酒自体はもちろん高品質で、ラベルもふわふわの可愛らしいものを造りました。それがすごく好評で、実家に戻った途端に思わぬヒット作が完成した感じだったんです。
──すごいですね。
ラッキーパンチでした。卸先は、僕らのこだわりを理解してくれて、お客さんにもそのこだわりを説明してくれる専門店に絞る「特約店制」にしたんですね。すると、ある日、特約店が「山本くん、日本酒も持ってきなよ。梅酒がこんなに美味しいから『ここの日本酒はどうなんだ?』ってお客さんから訊ねられるんだよ」と言ってくれたんです。
とてもありがたかったんですけど、僕、どうしても期待に応えられなかったんですよ。
──なぜ?
美味しい日本酒が造れなかったんです。ハッキリと覚えているんですけど、大学時代、正月に飲んだうちの日本酒が全然美味しくなかったんです。その当時はお酒自体が得意じゃなかったので、『自分の体にお酒が合わないんだろう』と思っていました。でも、社会人になって東京で日本酒を飲んでみたら、結構美味しかったんですよ。
──ほうほう。
舌が成長したのかな、と思ったんですが、実家に戻って再び日本酒を飲んでみたら、やっぱりまずかった(笑)。普通に 、うちで造っている日本酒がまずかったんです。ですから、僕も初期の頃は美味しいお酒の造り方がわからなかったんです。
父は値段を下げるしか勝負の仕方がわからず、どんどん良い酒造り方から離れていきました。父も日本酒が美味しくないのはわかっているので、氷をボコボコ入れて飲むんですよ(笑)。もう日本酒ですらないし、『じゃあ日本酒じゃなくてよくね!?』みたいな(笑)。


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