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2019.02.16

ライフ

チャラい社会人は、どんな人生を経て人気の書家になり得たのか?

OCEANS’s PEOPLE ―第二の人生を歩む男たち―
人生の道筋は1本ではない。志半ばで挫折したり、やりたいことを見つけたり。これまで歩んできた仕事を捨て、新たな活路を見いだした男たちの、志と背景、努力と苦悩の物語に耳を傾けよう。
小林龍人のインタビューを最初から読む

小林龍人は墨筆士である。これは、彼が自ら考案した肩書きだ。日々、書をしたためる。芸術作品になることもあれば、企業や店舗のロゴとして書くこともある。あるいは「書く」というパフォーマンスそのものがビジネスになる場合もある。



平たく言うと「書家」。だが、平たく言うには小林自身照れや恐れ多さも感じている。
正統な書道の世界とは全く関係のないところから出てきている。……というだけでなく、「書」だけを生業にしていこうと考えているわけでもない。また、書に向き合い始めてまだ10年ちょっと。それは、小学生のころに“習い事”としてやらされていたとき以来、20年ぶりのことだった。

今回は、彼が筆を手にしていなかった20年にフォーカスする。正直、この時期の小林、フツーの兄ちゃんなのである。
 

なんでも「そこそこ」な感じでやってきた

1976年生まれ。地元は埼玉県狭山市。東京・池袋まで西武線で40分ほど。大都会とほど良い距離感の郊外。お父さんは大手自動車会社に二輪のエンジニアとして勤めていた。

書道は小学生のうちに毛筆六段・硬筆特待というレベルにまで到達した。でも、「あまりに字が汚いから」とお母さんに半ば強制的に行かされた習い事。サッカーは楽しかった。

「小学校の卒業文集には“日本代表!”って書きましたね。でもべつに何の日本代表になる、とかは書いてないんですよ。大物になるぜ! ぐらいの意味合いでの“日本代表”(笑)。大人になったらこれがしたい、とかいう野望もとくにない普通の子供でした」。

部活としては、池袋のとある付属高校に通うころまで続けていた。本人曰く「都大会に進出するかどうかっていうレベルのチームで、1年生からポツポツ試合には出してもらっていた」のだが、2年生のときにケガでレギュラー落ち。で、部活に出られず空いた心の穴に、エアジョーダンとヴィンテージジーンズが忍び込んだ。

「’90年代前半、まさにチーマー世代で、子供のころから結構ファッション好きだったんですけど、何万円もするデニムとオリジナルのエアジョーダンが欲しくて欲しくて。部活よりそっち。バイトばっかりするようになりました。遊んでたのが池袋だったんで、周りにかなり気合の入った人たちも多くて、下手したら組織に飲み込まれかねない状況だったんです。でもそんなとき、毎週のようにつるんでた中学からの友達が“スノーボードって面白いよ”って声をかけてくれたんです。スポーツとして面白そうだったし、ファッションやそれに付随するカルチャーとしても僕の好みにすごく合致したので、すぐにハマってしまいました」。

そして、大学へのエスカレーターから強制的に途中下車。


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