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2019.01.11

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【前編】「遅すぎた。だから考えた」“生涯レスラー”永田克彦が五輪を夢じゃなくすまで

京王線仙川駅から徒歩2分。ある格闘スポーツジムの前に、大きな人だかりができている。
ジム内を覗いてみると、練習を終えたあとなのだろうか、10数名の子供たちが元気良く自由に走り回り、保護者たちの前でバク宙・バク転といったアクロバットなパフォーマンスを披露している。
その輪の中心で、ガッチリした体つきの男が、柔らかな表情で子供たちと接している。レスリング・シドニー五輪グレコローマンスタイル69kg級銀メダリストの永田克彦だ。

これまでレスリング選手、総合格闘家として活躍してきた永田は、2010年に格闘スポーツジム「レッスルウィン」をオープンし、子供から大人まで、レスリングやキックボクシングなどのトレーニングを指導している。また、茨城県にある日本ウェルネススポーツ大学のレスリング部監督も務めるなど、多忙な日々を送っている。
指導者として活躍の幅を広げている永田だが、一方では、45歳を迎えた現在も、“現役レスラー”として日々トレーニングを重ね、体調管理を怠らない。
なぜ永田は、今でも現役を貫き、マットに上がり続けるのだろうか。これまでの競技人生を振り返るとともに、レスリングの道を追求し続ける、その理由を聞いた。
 

衝撃を受けたロサンゼルス五輪

永田がレスリングを始めたのは、意外にも高校に入ってからだった。永田がレスリングの存在を知ったのは、1984年ロサンゼルス五輪をテレビで見た小学5年生のとき。当時、格闘技としてプロレスはポピュラーだったが、アマチュアレスリングの認知度はまだ低かった。しかし、道具を使わず自らの力と技だけを頼りに体をぶつけ合うレスラーたちの姿に、衝撃が走った。
「レスリングってすごい! 俺もやりたい!」。
同じタイミングで、5つ年上の兄・裕志が高校のレスリング部に入ったことも重なり、永田はレスラーを目指すことを決意する。
しかし、自宅の近くにレスリング教室は存在せず、また、レスリング部がある中学校も近隣にはない。結局、レスリングをやりたいという気持ちを押し殺しながら、中学校生活を過ごさざるをえなかった。
 

待ち受けていたレスリングの“洗礼”

それから時が経ち、永田は、兄・裕志が通った千葉の成東高校に入学、ようやく念願だったレスリングを始める。意気揚々とレスリング部に入部した永田だったが、そこでは、あらゆる面で“洗礼”を受けることになった。

「入部当初は、人を倒すことがこんなに大変なものなのかと、正直驚きました。それまで頭の中で描いていたイメージと全然違って、もっとすんなり上手くなると思っていたのですが、そう甘い世界ではありませんでしたね。もともと何かスポーツができるわけでもなかったですし、基礎体力もなかったので、練習にすらついていくことができなかったんです」。
結局、高校3年間で目立った実績を残すことはできなかった。それでもあえて、永田はレスリングの名門・日本体育大学を目指すことを決意する。
「本当は高校3年間の中でインターハイに出場したり、国体で活躍して、その実績を提げて六大学あたりに進学しようと思っていたんですよ。それで普通に大学生活をエンジョイしようかなって(笑)。でも結局、描いていたビジョンは崩れてしまいましたし、それ以上にめちゃくちゃ悔しかった。だから『何としても強くなって、勝つ喜びを味わいたい』と思ったんですよね。そのためには、いちばん強い大学に入学して、厳しい環境に身を置くしかない。だったら、日体大に行くしかないなと。もうその一択でしたね」。
兄・裕志が日体大レスリング部OBで、1988年の全日本学生選手権、および翌年の全日本大学グレコローマン選手権で優勝を果たしたことや、成東高の監督が日体大出身だったこともあり、進学への道がひらけた永田。だが、やはり五輪の日本代表を何人も輩出する名門校とあって、永田の前には、さらなる大きな壁が立ちはだかった。
 

選手を観察することによって得られた“気付き”

永田が入学した1992年は、ちょうどバルセロナ五輪が開催された年で、当時の日体大レスリング部からは、なんと7名もの選手が日本代表に選出されていた。そんな世界レベルの環境に飛び込んだ永田は、圧倒的な実力差を嫌でも感じさせられることになる。
「とにかく練習自体が世界レベルで、高校に入ったとき以上の衝撃で、まったくついていくことができませんでした。走り込みでも周回遅れになるし、重い重量のバーベルは持ち上げられないし。挙げ句の果ては、スパーリングで自分より10kgも体重が軽い先輩に振り回されて、力負けするんですよ。僕と先輩たちとでは、それぐらい大きなレベルの差がありましたね」。
永田は必死に練習に食らいついていく。だが、周りと同じような練習量をこなしても、この圧倒的な差を縮めることは難しい。同級生でさえ、高校では全国トップクラスの実力者ばかりだった。
“スタートラインが違いすぎる”。
そう危機感を覚えた永田は、練習の中である行動にでる。

「強い先輩たちをひたすら観察し、レスリングを研究することを始めました。この人は何で強いのか、どんな体つきをしているのか、どういう技を持っているのか。練習以外でも、会話の内容を聞いてその人の性格を探ったり、レスリングについてどんな考えを持っているのかを聞いたりして。このように1人ひとり分析してデータを集めていくことによって、試合での勝ち負けには必ずしっかりとした理由がある、ということがわかってきたんです」。
「パワーがなくて勝てない人。技の種類が少なくて勝てない人。逆に、その2つがなくても気持ちの強さで押し切る人。いろんな選手がいましたが、それぞれ特性があって、それが試合の勝敗に直接つながっていることに気付いたんです」。
 

五輪出場が「夢」から「目標」へ

どんな行動・思考にも理由づけをして結論を導く、ということを習慣づけていくとともに、自分が勝つために足りない要素を整理することにした結果、まず補うべきはレスラーとしての筋力だという結論に辿り着いた。とにかく力負けが多かった永田は、パワーをつけるべく、全体練習以外の時間を筋力トレーニングに費やした。
トレーニング後はプロテインを飲み、食事のメニューはタンパク質を多めにした。日々の生活習慣も変え、体を大きくすることだけに集中した。そうした毎日を積み重ね、1年が過ぎた大学2年時の“ある試合”がきっかけで、永田は、レスラーとして一気に階段を登り始めることになる。
「1993年の国体で、高校時代に全国チャンピオンになった同級生の選手と対戦したんですけど、大きなポイント差をつけて勝つことができたんですよ。そのときに『ようやく力がついてきたな』と手応えを感じることができましたね」。
その試合を機に、同年の全日本選手権で初出場5位。1994年、永田が大学3年のときに行われた全日本学生選手権では、念願の初優勝を果たし、大学日本一の座に。
地道に選手1人ひとりを研究し、自分に足りない部分を考えながら、勝てるレスリングを作り上げていった永田は、目標を達成し成果を得るという経験をしたことにより、自分自身のレスリングに自信が持てるようになった。
そして、少年時代に憧れた五輪出場が、「夢」から現実的な「目標」へと変わっていったのだった。
後編へ続く。
 
 佐藤主祥=取材・撮影 瀬川泰祐=文


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