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2019.01.13

ライフ

【後編】年齢を理由にしない。45歳のレスラー永田克彦が今日もマットに上がる理由

前編の続き。

必然だったシドニー五輪銀メダル

レスリング・シドニー五輪グレコローマンスタイル69kg級銀メダリスト、永田克彦さん
格闘スポーツジム「レッスルウィン」主宰。日本ウェルネススポーツ大学レスリング部監督も務める永田克彦さん。
五輪出場を明確な目標として定めた永田は、日本体育大学を卒業後、警視庁に入庁してレスリングを続けることを選んだ。はじめの6カ月間は警察学校で訓練し、卒業後は第六機動隊に配属され、同隊にある警視庁レスリング部で練習に明け暮れた。
社会人2年目の1997年に行われた全日本選手権では初優勝を飾り、永田は、名実ともに日本を代表する選手となっていった。
そして、2000年シドニー五輪の日本代表の座を勝ち取ると、初出場ながらグレコローマンスタイル69kg級で銀メダルを獲得。最高峰での戦い、そして五輪初出場でのメダル獲得にも関わらず、永田は、その凄さを独自の視点で語る。
「みんな“初めての五輪なのに、銀メダルはすごい!”なんて言いますけど、僕は逆に初出場のほうが力を発揮しやすいと思います。2度目よりも、最初のほうが勢いや貪欲さがありますからね。それに、五輪は4年に1度しかないわけですから、次にチャンスがあるかどうかなんて、誰にもわからない。だから初出場で緊張するとか、そんなことは言っていられません。せっかく掴み取ったチャンスなので、悔いを残さないよう全力を尽くことしか考えていませんでした」。
それは、24時間レスリングだけを考えて生活を送ってきた永田らしい言葉だった。競技にすべてを注ぎ込んできたからこそ、“次がある”という発想は持っていないのだ。五輪という舞台に対しても「次はない」という意識を持っていたからこそ、必然的に表彰台という結果がついてきたのだろう。
 

永田を阻んだ“骨格の壁”

その後、2大会連続での五輪出場を目指すにあたり、永田は新たな環境を求めて警視庁を退庁することを決意。実業団のようなスタイルで五輪を目指せるという理由で、新日本プロレスの「闘魂クラブ(現・ブシロードクラブ)」に入団し、レスリングを続けていった。
そして、移籍後、2004年のアテネ五輪への切符を掴んだ永田だが、思うような力を発揮することはできずに、1次リーグ敗退に終わってしまう。同大会から女子競技の採用決定にともなって、男女とも7階級ずつになり、男子は8階級から1階級減らさなくてはならなくなってしまった。それが、永田がいる69キロ級だったのだ。階級変更を余儀なくされた永田は、74キロ級に上げて試合に臨むも、やはり“本来の骨格”ではない階級で世界と戦うのには、限界があった。

「僕の骨格では無理がありましたね。なんとか五輪に出ることはできましたが、勝ち上がることはできなかった。やはり勝負の世界なので、厳しかったです」。
 

総合格闘家として新分野へ挑戦

五輪を終えた永田は、2005年になんと、総合格闘家への転身を表明する。これまでレスリングにすべてを注ぎ込んできた根っからのレスラーが、なぜレスリングのマットから離れることを決めたのだろうか。
「当時はK-1をはじめ、さまざまな格闘技が人気で、“格闘バブル”と呼ばれた時代だったので、いろんなところからお誘いを頂いていたんです。ちょうどその頃に、レスリングのルール変更がありまして。それまでは試合時間3分×2ピリオドで総合得点の多い選手が勝ちというルールでしたが、新ルールは2分×3ピリオドで2ピリオド勝利した選手が勝ちというルールに変わったんです。要するに、トータルポイントで競う形式から2セット先取の形式になったんですね」。
このルール変更は永田にとって、レスリングにおける競技の本質を変えてしまうものだった。
「僕はずっと旧ルールの中で試合に勝つスタイルを構築していったので、新しいレスリングのルールにはどうしても馴染めなかった。そう思ったタイミングで、『だったら新たな分野に挑戦してみよう』と総合格闘家に転身することを決めたんです」。
レスリングは何かとルール変更の多いスポーツだ。基本的には「視聴者にとって競技をより魅力あるものにするため」に行うが、それは間違いなく選手のプレーに大きく影響する。大学時代から自分を分析し、プレースタイルを突き詰めてきた永田にとって、この大幅なルール変更はどうしても受け入れ難いものだった。
こうして新たに総合格闘家の道を歩み始めた永田は、2005年の大晦日に行われた『Dynamite!!』でデビュー戦を飾ると、2011年まで16試合リングに上がり、6勝7敗3分という成績を残した。
 

総合格闘技、指導者の経験をレスリングに生かす

2011年までプロ格闘技のリングに上がっていた永田だが、その前年には新日本プロレスを退社し、格闘スポーツジム「レッスルウィン」を東京・調布市にオープンした。もともと自分の道場を持ちたいという思いがあったため、総合格闘家としてある程度の経験を積んだタイミングで、レスリング指導を提供する格闘ジムの開業に踏み切ったのだ。
さらに、2015年からは、日本ウェルネススポーツ大学のレスリング部監督に就任し、世界の最前線で戦う世代への指導も行うようになった。
着々と指導者として活躍の幅を広げていく永田だが、同年12月、なんと11年ぶりにレスリングに復帰。全日本選手権で13年ぶり7度目の優勝を果たしてみせた。
42歳での優勝は、1995年に森山泰年が記録した歴代最年長優勝記録(38歳)を20年ぶりに更新するもので、レスリング界のみならず、スポーツ界全体に大きな衝撃を与えた。
レスリングに復帰した理由について、永田はこう語る。

「実は、総合格闘家としてやっていたときから『またレスリングしたいな』と思ってはいたんです。そうしたら、2013年にまたルール変更があって、昔の試合時間3分×2ピリオドの形式に戻ったんですよ。『あ、このルールならまたやりたいな』と。そう思って、大学生の練習に混じりながら、少しずつレスリングを再開したんです」。
「実際にマットに立ってみると、試合の感覚も全然昔と変わらないし、むしろ10年間の経験が役立って技術的には若い頃を上回っているという(笑)。加えて試合運びとか、体力の配分もわかるから、40歳を超えてもあまり疲れなかったですね。また、指導者として子供たちにレスリングを、より噛み砕いて説明するようになったので、自分の頭の中で競技をさらに理解することができた、というのも大きかったと思います」。
 

年齢を理由に挑戦から逃げることはやめよう

それ以降、公式戦に出場していない永田だが、現役引退を表明してはいない。そこで、永田に対して、レスラーとして“生涯現役”を貫くつもりなのかを聞いてみた。
「生涯現役がどこからどこまで、というラインはわかりません。ですが、自分がレスラーとしてどこまで高いレベルでやれるのか、チャレンジしたい気持ちはあります。それに僕の人生は、挫折と挑戦の繰り返し。常に大きな壁があって、何度も打ち砕かれてきました。でも僕はしつこいので(笑)、それを乗り越えるためだったら何度だって挑戦してきたんです」。
「年齢との戦いもそうです。42歳で優勝はしましたが、実のところ、30代半ばで年齢の壁にぶち当たりました。すぐにスタミナは切れるし、どれだけ練習しても成果が上がらない。でもそこで諦めず、体を進化させるためにさまざまなトレーニング方法を取り入れたんです。それが効いて優勝という結果にあらわれた」。
「だから『もう歳だから……』と自分の限界を決めつけてはいけません。挑戦することを止めなければ、必ず道は拓けてきます。その姿勢を貫くことが僕という人間なので、一生をかけてレスリングを追求したいと思っています」。

30代、40代と歳を重ねていけば、その年齢を理由に挑戦から逃げ出す癖がついてしまう人も多いのではないだろうか。だが、永田は40歳を越えようと、どんな逆境に立たされようと、具体的な策を編み出し、壁を乗り越え続けてきた。
どんな壁であろうと、超えられない理由は必ずあり、逆に超えるための方法もどこかに必ず眠っている。だったら僕たちも、まずは考えることから始めてみよう。諦めることさえしなければ、限界という壁はいつか乗り越えることができるのだから。
 
佐藤 主祥=取材、撮影 瀬川泰祐=文


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