よく行く喫茶店がある。
いつ来ても混雑することが無く、かといって空いているわけでもない。
そんな空間が気に入っている。
いつものように、置いてある雑誌を手に取り、ブレンドを頼んでいつもの席に座る。
こういったルーティンができるくらい通っているのだ。
「街角OSSANコラム」を最初から読む雑誌をめくりながら、ブレンドを待っていると、雑誌の「袋とじ」が乱雑に破かれているのを発見した。
余程急いで開けたのだろう、中の文章まで切れてしまっていた。
袋とじを開けている姿を見られるのは、あまり格好いいものではない。
ならば開けなければいいのだが、やはり中身は確認したい。
それが男心というものだ。
見出しには「限界ギリギリセクシー」と書かれている。
「限界」と「ギリギリ」はほぼ同じ意味なので、余程そこを強調したいような見出しだ。
期待感を煽りたいのであろうがその手には乗らない。
我々は、過激な見出しに何度も騙されてきた。
我々の思う「限界」とここに書かれている「限界」の間には、 埋められないほどの溝があるのだ。
中を確認すると……やはり予想通りだ。
安堵とがっかりの狭間で微妙な顔をしていると、
「すいません。他のお客さんに雑に切られてしまったみたいで……」
と言いながら、 マスターがブレンドをテーブルに置く。
袋とじを開ける姿も恥ずかしいが、見ている姿を見られるのも恥ずかしいものである。
少しどきりとしたが、焦って閉じるのも恥ずかしいので、
「もう少し、丁寧に開けてくれれば良かったですね」
と返してみた。 話を、雑に切られた袋とじの切り口へと誘導するためだ。
袋とじを見ていたのではなく、切り口に注目していたんですよ。
という浅はかなごまかしである。
しかし、ここから興味深い話に発展する。
「人柄が出ますよね」とマスターが言った。
こういうことにも性格や人柄が出るという。
確かに、喫茶店に置いてある雑誌だからということも考えられるが、 几帳面な人なら、どんなに焦っていてもこんなに雑にはならない。
私は「きっと、大雑把な性格の人が切った切り口でしょうね」と返してみた。
するとマスターから「そうとも限りませんよ」という返事がある。
私が意外な顔をするとマスターが、
「几帳面な人でも雑になるときがあります。自分で買ったものではないですからね。逆に雑な人でも、自分のものでは無いからと、几帳面に開けたりする人もいます」
「なるほど〜」私は感心した。
人は、何かを理解しようとするとき、単純化してしまうクセがある。
雑だから大雑把だとか、きれいだから几帳面だとか…… 当たり前だが人間はそんなに単純ではないのだ。
するとマスターから名言が飛び出す。
「人の数だけ「袋とじ」の切り口があるんですよ」 人は「袋とじ」を開けるとき、知らずに自分の性格や人柄を出してしまっているという。
長年、この喫茶店で切り口を見てきたマスターだから言える名言である。
雑な切り口は、イライラしてつい物に当たってしまった結果かもしれない。
あるいは、自分のものはきれいに使うが、人のものだと雑になる人かもしれない。
他人の家なら、ポテトチップスを食べた手を平気でカーペットで拭く…… そんな人かも知れない。
あるいは、きれいに開けている姿が格好悪いから、あえて雑に開けるという へそ曲がりの心情からかもしれない。
きっと、飲み会にわざと遅れてきたりするような人なのだろう。
逆に、きれいな切り口は、後の人のことを考えてのことかもしれない。
おそらく兄弟の長男で、昔から弟や妹のことを考える習性が身に付いているため、 ついつい次の人のことを考えてしまうのかもしれない。
中には、誰かが開けるまで開けない人もいる。
他力本願で、自分では何もしないが、文句だけは言う。
そんな人かもしれない。
こんな風に、切り口ひとつでさまざまな人生が見えてくる。
しかし恐れ入る。
袋とじの切り口から、人生が見えるとは……まるで杉下右京のような洞察力。
「すごいですね」とマスターに言うと 「それだけ人を見てきましたから」と残して、カウンターの奥に消えて行った。
私がこの店を選んでいるのではなく、この店に私が選ばれたのかもしれない。
そんな、ちょっとファンタジーな気持ちになった、ある日の出来事でした。
ちなみに、男性誌に多い「袋とじ」だが、発明したのは女性である。 ここにもまた人生があるのかもしれない。 これはこれで、またどこかで掘り下げてみたい。
文:ペル・ワジャフ准教授
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