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2017.04.08

ライフ

人の数だけ「袋とじ」の切り口があるんですよ


よく行く喫茶店がある。
いつ来ても混雑することが無く、かといって空いているわけでもない。
そんな空間が気に入っている。
いつものように、置いてある雑誌を手に取り、ブレンドを頼んでいつもの席に座る。
こういったルーティンができるくらい通っているのだ。
「街角OSSANコラム」を最初から読む
雑誌をめくりながら、ブレンドを待っていると、雑誌の「袋とじ」が乱雑に破かれているのを発見した。
余程急いで開けたのだろう、中の文章まで切れてしまっていた。
袋とじを開けている姿を見られるのは、あまり格好いいものではない。
ならば開けなければいいのだが、やはり中身は確認したい。
それが男心というものだ。
見出しには「限界ギリギリセクシー」と書かれている。
「限界」と「ギリギリ」はほぼ同じ意味なので、余程そこを強調したいような見出しだ。
期待感を煽りたいのであろうがその手には乗らない。
我々は、過激な見出しに何度も騙されてきた。
我々の思う「限界」とここに書かれている「限界」の間には、 埋められないほどの溝があるのだ。
中を確認すると……やはり予想通りだ。
安堵とがっかりの狭間で微妙な顔をしていると、
「すいません。他のお客さんに雑に切られてしまったみたいで……」
と言いながら、 マスターがブレンドをテーブルに置く。
袋とじを開ける姿も恥ずかしいが、見ている姿を見られるのも恥ずかしいものである。
少しどきりとしたが、焦って閉じるのも恥ずかしいので、
「もう少し、丁寧に開けてくれれば良かったですね」
と返してみた。 話を、雑に切られた袋とじの切り口へと誘導するためだ。
袋とじを見ていたのではなく、切り口に注目していたんですよ。
という浅はかなごまかしである。
しかし、ここから興味深い話に発展する。
「人柄が出ますよね」とマスターが言った。
こういうことにも性格や人柄が出るという。
確かに、喫茶店に置いてある雑誌だからということも考えられるが、 几帳面な人なら、どんなに焦っていてもこんなに雑にはならない。
私は「きっと、大雑把な性格の人が切った切り口でしょうね」と返してみた。
するとマスターから「そうとも限りませんよ」という返事がある。
私が意外な顔をするとマスターが、
「几帳面な人でも雑になるときがあります。自分で買ったものではないですからね。逆に雑な人でも、自分のものでは無いからと、几帳面に開けたりする人もいます」
「なるほど〜」私は感心した。
人は、何かを理解しようとするとき、単純化してしまうクセがある。
雑だから大雑把だとか、きれいだから几帳面だとか…… 当たり前だが人間はそんなに単純ではないのだ。
するとマスターから名言が飛び出す。
「人の数だけ「袋とじ」の切り口があるんですよ」
人は「袋とじ」を開けるとき、知らずに自分の性格や人柄を出してしまっているという。
長年、この喫茶店で切り口を見てきたマスターだから言える名言である。
雑な切り口は、イライラしてつい物に当たってしまった結果かもしれない。
あるいは、自分のものはきれいに使うが、人のものだと雑になる人かもしれない。
他人の家なら、ポテトチップスを食べた手を平気でカーペットで拭く…… そんな人かも知れない。
あるいは、きれいに開けている姿が格好悪いから、あえて雑に開けるという へそ曲がりの心情からかもしれない。
きっと、飲み会にわざと遅れてきたりするような人なのだろう。
逆に、きれいな切り口は、後の人のことを考えてのことかもしれない。
おそらく兄弟の長男で、昔から弟や妹のことを考える習性が身に付いているため、 ついつい次の人のことを考えてしまうのかもしれない。
中には、誰かが開けるまで開けない人もいる。
他力本願で、自分では何もしないが、文句だけは言う。
そんな人かもしれない。
こんな風に、切り口ひとつでさまざまな人生が見えてくる。
しかし恐れ入る。
袋とじの切り口から、人生が見えるとは……まるで杉下右京のような洞察力。
「すごいですね」とマスターに言うと 「それだけ人を見てきましたから」と残して、カウンターの奥に消えて行った。
私がこの店を選んでいるのではなく、この店に私が選ばれたのかもしれない。
そんな、ちょっとファンタジーな気持ちになった、ある日の出来事でした。
ちなみに、男性誌に多い「袋とじ」だが、発明したのは女性である。 ここにもまた人生があるのかもしれない。 これはこれで、またどこかで掘り下げてみたい。
文:ペル・ワジャフ准教授

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