37.5歳の人生スナップ Vol.103
2019.12.26
LIFE STYLE

雑草からスタートした箱根駅伝監督が、陸上から離れられない理由

前田康弘

「僕は雑草からスタートしたランナーです」。

そう話すのは國學院大学・陸上競技部で監督を務める前田康弘さん(41歳)だ。当時最年少の31歳で駅伝監督に就任し、丸10年。今年は全日本、箱根と並ぶ三大駅伝のひとつである出雲駅伝で優勝を果たした。まさに今、ノリにノッている大学駅伝の監督として、2020年の箱根駅伝にかける思いは人一倍熱い。

「今度の箱根駅伝はターニングポイントになると思います。しっかり結果を残して高校生たちにメッセージを届けたい」。

取材時、箱根駅伝を目前に控えた國學院大学陸上競技部の寮は、静かな緊張感に包まれているように感じた。いたるところに選手たちへの激励のメッセージや、日々の練習の記録が張り出され、その中には「出雲駅伝優勝」の文字もあった。

前田康弘

箱根駅伝本番に向けて選手たちの体調にはもっとも気を使う時期。と同時に、すでに新たな選手候補探しも水面下では始まっているという。

「全国の高校から陸上で優秀な高校生を見つけてスカウトしなきゃいけない。監督就任当初は、まず彼らを指導している先生が僕よりも遥かに年上なので、非常にやりづらかったですね」。

そう言って笑う。今ではすっかり大学駅伝の監督として広く知られる存在となったが、就任当時の10年前は、若くして指導を行う前田さんに風当たりが強いこともあった。預けて大丈夫なの? というベテラン指導者たちの訝しげな視線を受けながらも、謙虚に頭を下げるしかなかった。

前田康弘

「今の子は新しいもの好き。優勝したチームに行きたがらないんですよ。というのも一度頂点に立ってしまえば、今度は連覇をかけて戦わなければいけない。むしろ追われる側よりも追う側を好むんです。まだ優勝してないチームを自分たちで優勝させる、そこに面白みを感じるようです」。

だからこそ箱根駅伝の連覇は難しく、次から次に強豪校は入れ替わるというドラマが起こる。この10年で生徒たちも、その指導法も大きく変わった。その難しさを痛感しつつも、選手時代から結果を残してきた、いわば陸上エリートである前田さんがなぜ“雑草”なのか。陸上競技にかけた人生を振り返ってもらった。

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相手にされない悔しさが雑草に火をつけた

前田康弘

前田さんが陸上競技を始めたのは高校生のとき。遅咲きのランナーだった。

「小中学生の頃は兄貴のマネをして野球、サッカーと球技ばかりやっていたんですが、足が速かったので中学で駅伝大会に駆り出されることになって、優勝したんです。それで高校では陸上やったらどうか、という話になりました」。

どうせ陸上をやるなら一番強いところに行きたい。前田さんは、県内トップレベルのスポーツ強豪校だった市立船橋高校の受験を決めた。

「市船に入学できたのは良かったんですが、入って早々、現実に叩きのめされましたね。想像以上に部のレベルは高くて、陸上部は記録順にA〜Cチームに分けられるんですけど、僕はCチームでした。当時、まだろくに走る練習もしたことがないうえに、部員数も多かったので、監督と話すことすらできませんでした」。

憧れの高校で意気揚々と陸上部に入部したのも束の間、Aチームの部員と、Cチーム部員ではかけられる期待も熱量も大きな隔たりがあることを痛感する。

「Cチームは自分で練習をやっていろという感じで。ろくに認識すらされていなかった。部活終わりにみんなで帰るときはAチームがキラキラ楽しそうに帰る後ろを、Cチームのみんなでとぼとぼ歩くような(笑)。それぐらいの格差を感じていましたね」。

本格的な陸上経験もなく、どんな練習をしたらいいのかもわからない。監督にも見向きもされず悔しさだけが募った。その悔しさが、“雑草”前田さんに火をつけた。

「結果から言えば、1年の夏には学年でいちばん強くなりました。秋の大会では、1年からレギュラーで出ることができた。入部して半年で、やっと目を見て話してもらえた感じでした」。

前田康弘

たった半年で劇的な成長を遂げた前田さん。1年生の夏、いったいどんな努力があったのだろうか?

「このまま負けて諦めるなんて絶対に嫌だった。『3年間絶対レギュラーとってやる』と思って練習しました。人より遅く陸上の世界に入った自分が勝つためには、無我夢中で目の前のことをやるしか追いつく方法はないと思ったんです」。

未経験者だからこそ、伸びしろは大きかった。走る楽しさや勝つ喜びを知り、“箱根駅伝”を意識し始めたのもこの頃だ。

「高1の冬に兄貴と箱根駅伝を見ていて、『お前もここに出られるようにがんばれよ』なんて軽い気持ちで言われたことを今でも覚えてますね」。

そんなたわいもないやり取りが、前田さんの心の片隅に残っていく。箱根駅伝への思いは、走れば走るほど強くなっていった。

「箱根駅伝の中継で1号車の解説をしている渡辺康幸監督は、母校が同じで憧れのスーパースターでした。渡辺さんが“花の2区”で区間賞をとる姿をみて、あんな風にいつか自分も箱根を走りたいと思わされました」。

ちなみに、そんな憧れのスーパースターとも、今や酒を酌み交わす仲になっているという。

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恩師・大八木監督との出会い

前田康弘

高校入学当初はCチーム部員として注目すらされていなかった前田さんだが、1年生の夏が終わり、年が明ける頃には箱根駅伝すら意識するまでに成長。さらに全国大会では高2・高3とレギュラー枠を勝ち取り、県ではトップの成績を残した。

「そんななか高2の冬にいちばん最初に声をかけてくれたのが駒澤大学だったんです」。

その後、いくつかの大学がスカウトに名乗りをあげたが、一番はじめに自分を評価してくれたという嬉しさが、駒澤大学を選んだ決め手になったという。そして、恩師・大八木弘明監督との出会いが、大きなターニングポイントとなる。

「大八木さんと出会ったから、私は今ここにいて、箱根駅伝でも優勝させてもらった。監督としてはすごく怖い存在でしたけど、『(箱根駅伝に)出場するだけでいいのか?』『自分が主役になる人生を思い描かないでどうする!』と喝を入れられたことで自分を追い込めた」。

練習はきつかったが、同じ指導者の立場に立った今だからこそ、大八木さんの苦悩がより理解できるようになったという。

「自分が現役のとき、大八木監督は迷いなく箱根の出場選手を決めているように見えて、『すごいな』と思っていた。でも僕らの前では見せていなかっただけで、実はめちゃくちゃ迷っていたんです」。

箱根駅伝での起用法が、いかに選手のその後の人生に関わる大きな選択か、その重圧が同じ指導者の立場になったからこそわかるようになったという。実際、前田監督自身も大学1年次は『当日変更』枠で出場を外された経験を持つ。だからこそ『来年こそは絶対!』と決意を強くすることができたのだ。前田さんの箱根駅伝での活躍は後編で。

 

藤野ゆり=取材・文 小島マサヒロ=写真

# 37.5歳の人生スナップ# 出雲駅伝# 前田康弘# 國學院大学# 箱根駅伝# 駒澤大学
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