相手にされない悔しさが雑草に火をつけた
前田さんが陸上競技を始めたのは高校生のとき。遅咲きのランナーだった。
「小中学生の頃は兄貴のマネをして野球、サッカーと球技ばかりやっていたんですが、足が速かったので中学で駅伝大会に駆り出されることになって、優勝したんです。それで高校では陸上やったらどうか、という話になりました」。
どうせ陸上をやるなら一番強いところに行きたい。前田さんは、県内トップレベルのスポーツ強豪校だった市立船橋高校の受験を決めた。
「市船に入学できたのは良かったんですが、入って早々、現実に叩きのめされましたね。想像以上に部のレベルは高くて、陸上部は記録順にA〜Cチームに分けられるんですけど、僕はCチームでした。当時、まだろくに走る練習もしたことがないうえに、部員数も多かったので、監督と話すことすらできませんでした」。
憧れの高校で意気揚々と陸上部に入部したのも束の間、Aチームの部員と、Cチーム部員ではかけられる期待も熱量も大きな隔たりがあることを痛感する。
「Cチームは自分で練習をやっていろという感じで。ろくに認識すらされていなかった。部活終わりにみんなで帰るときはAチームがキラキラ楽しそうに帰る後ろを、Cチームのみんなでとぼとぼ歩くような(笑)。それぐらいの格差を感じていましたね」。
本格的な陸上経験もなく、どんな練習をしたらいいのかもわからない。監督にも見向きもされず悔しさだけが募った。その悔しさが、“雑草”前田さんに火をつけた。
「結果から言えば、1年の夏には学年でいちばん強くなりました。秋の大会では、1年からレギュラーで出ることができた。入部して半年で、やっと目を見て話してもらえた感じでした」。
たった半年で劇的な成長を遂げた前田さん。1年生の夏、いったいどんな努力があったのだろうか?
「このまま負けて諦めるなんて絶対に嫌だった。『3年間絶対レギュラーとってやる』と思って練習しました。人より遅く陸上の世界に入った自分が勝つためには、無我夢中で目の前のことをやるしか追いつく方法はないと思ったんです」。
未経験者だからこそ、伸びしろは大きかった。走る楽しさや勝つ喜びを知り、“箱根駅伝”を意識し始めたのもこの頃だ。
「高1の冬に兄貴と箱根駅伝を見ていて、『お前もここに出られるようにがんばれよ』なんて軽い気持ちで言われたことを今でも覚えてますね」。
そんなたわいもないやり取りが、前田さんの心の片隅に残っていく。箱根駅伝への思いは、走れば走るほど強くなっていった。
「箱根駅伝の中継で1号車の解説をしている渡辺康幸監督は、母校が同じで憧れのスーパースターでした。渡辺さんが“花の2区”で区間賞をとる姿をみて、あんな風にいつか自分も箱根を走りたいと思わされました」。
ちなみに、そんな憧れのスーパースターとも、今や酒を酌み交わす仲になっているという。
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